ポエカフェ、吉原幸子 

酉年の初回はなんとキリ番の90回目。しかもピックアップ詩人の息子さんも参加してくださったというめでたい回となりました。
続々と息子さんをはじめ、参加者が集まる中、7時になってもぴっぽさんが姿を見せへんと思っていたら、なんとあの小部屋にとっくに潜伏していたということ。皆、来ない来ないとツイッターを調べたり、はたまたメールするかと騒いでおりました・・・そんなのっけから波乱含みの今回の詩人は1932年6月28日生まれの吉原幸子
東京は四谷生まれで父・陽と母・菊の二女(兄二人、姉一人の末っ子ざます)父は漢学者の流れをくむ銀行家。母は愛情豊かで娘時代に鎌倉の海で泳ぐモダンで外交的な女性。季節ごとに温泉や山に旅行するという裕福な家庭。1938年(6歳)新宿から中野に移り、西大久保へ転居。ズボン姿でハイキングに連れていかれ、宿で「坊ちゃん、坊ちゃん」と呼ばれることもあったという。テキストの写真もボーイッシュで綺麗なのです。そのショートの髪型が凄く似合っていて、長髪だった頃があったのだろうかとちょっと想像できない位に。
1940年(8歳)正月から親に勧められ、いやいや「いい子」の日記をつけはじめる。良い子の学習帳みたいなものでしょうかね。戦争へ向かっていくこの時代、世の中は軍国主義へとまっしぐら。書きたくないことまで書かなくてはいけなかったんでしょうね。
愛読書は「熊のプーさん」「少年倶楽部」木登りが得意で利発、活発的なこども。文武両道じゃん。
10歳で豊島区に引越。豊島区立長崎第二国民学校に転校。わぁお、吉原さんが豊島区に!というだけで豊島区がちょっといいかもと思えてくる。豊島区の図書館に資料があるのだろうか?
北原白秋萩原朔太郎中原中也などを兄、姉の本棚からのぞき読みし、詩の洗礼をうける。いい棚ですねぇ、素晴らしいわ。
学業はすこぶる優秀でオールAだったとか。もう何もいうまいて。容姿端麗、文武両道・・・突っ込むとこ、あらへんがな・・・・
12歳になると山形市七日町の光明寺へ集団疎開。同日、長兄出征。この頃、つけていた宿舎の見取り図や日記は緻密、観察力にたけていて、文章力もあったという。
1945年(13歳)1月、父死去と知らせがあり、3月帰京。東京大空襲群馬県敷島村へ母と疎開。県立渋川高女へ転入、勤労奉仕の毎日。
江戸っ子の彼女には田舎が新鮮。そして8月に敗戦。両兄、無事帰還。
14歳、帰京。都立豊島高校に復学。百人一首が爆発的流行したそうな。なんでやろ。
国語の先生が那珂太郎。この詩人と出会い、宿題で提出した詩が校内文芸誌に載る。って昔って詩人がよく教壇にたってるんよねぇ、はぁ、羨ましいわ。
といいつつも吉原さん、詩よりも演劇部や卓球部が楽しく、試験中でも映画館に通うほどの映画狂だったそうで詩のウェートはまだ低かったんでしょうね。スタンダールモーパッサンヤコブセンなどに傾倒。
19歳で豊島高校卒。流感の高熱おして東大受験するも落ちる。浪人中は歌舞伎に熱中。新宿区百人町へ転居。この頃、唯一親しんだ歌集が白秋の「桐の花」人妻との恋が歌われてるあれざます。
20歳で東大の文科二類入学。演劇研究会へ入り、サルトル、アヌイ、ブレヒトなど欧州演劇の魅力にとりつかれる。初舞台はサルトルの戯曲で娼婦役。24歳で東大仏文科卒業。卒論は「J・アヌイにおける愛の問題」(純粋についての言及あり)「劇団四季」入団。浅利慶太に声かけられたという。天本英世と同期だったそうな。こういう面白いプチ情報が次から次へと息子さんから披露され、テキスト全部終わらなくてもいいからもっと話を聞きたいと思ってしまう。
アヌイの戯曲の主役演じるも秋には退団。彼女は演出をやりたかったのにかわいい女優だけを求める当時の体質が合わんかったのではと推測される。仏文系の出身者が集まっていた同人誌「沙漠」に参加。処女詩集の10数編はここで発表。
26歳の12月、黒澤明の助監督、松江陽一と結婚。29歳の時、長男、純氏誕生。純氏は原宿で祖母と最初、生活。中学から母と暮らしたという。30歳の2月、離婚。一時、実家を出て、信濃町へ独居。雑誌「財界」編集部に勤務するも活字の号数と麻雀を覚えただけで翌年、退社。この年、那珂太郎に連れられ、草野新平宅を訪問。「歴程」同人となる。
32歳、七曜社から出す予定だったがここが倒産したため、第一詩集「幼年連祷」は歴程社から刊行、そして第二詩集「夏の墓」(思潮社)刊行(その時、第一詩集も思潮社より数百部増刷)この二つの詩集で翌年、第4回室生犀星賞受賞。石原吉郎f、中村真一郎大岡信谷川俊太郎らの絶賛を受ける。
母と息子と住む渋谷区神宮前より独居したのが35歳の時。36歳、ワダエミ和田勉の奥様)から紹介を受け、舞踏家の山田奈々子と出会い、朗読詩を書き下ろす。朗読と舞踏のコラボは好評を博す。
38歳、現代舞踏家たちとヨーロッパへ。黒澤明監督の「どですかでん」のパンフに詩を掲載。
40歳ー第三詩集「オンディーヌ」翌年、第4詩集「昼顔」刊行。1と2がセット。この3と4がセットで、3と4はちょっと異質でどろどろしていて、これが好きな人は他が嫌いで、他が好きな人は3と4はだめですねぇと息子さんが語る。私はどっちになるだろう。どろどろもあっさり単純も好きなんだけど。
だがこの異質と言われる第3,4詩集で第4回高見順賞受賞。今度は田村隆一絶賛。
処女作から4作続けてというのが凄い。詩の処女作は幼年蓮祷だけども世の中に彼女の書いたものは映画雑誌にルポを書いたのが初らしい。(松江幸子名義)
43歳ー第5詩集「魚たち・犬たち・少女たち」(サンリオ出版)刊行。44歳ー第6詩集「夢 あるひは・・・」刊行。
エッセイ集「人形嫌い」刊行。末尾に石原吉郎の言葉を経文のように置く。彼の姿勢に感動し、以後、彼の言葉を信条としたらしい。これは読んでみたい。翌年、エッセイ集「花を食べる」刊行。
46歳、第7詩集「夜間飛行」刊行。吉増剛造アイオワへ行く。行ったはいいが、吉増さん、抜かなくてもいい歯を抜き、入歯が合わずに朗読するとき苦労したそうな。海外に行ってまでなんとまあ。
47歳、母が脳血栓で入院。48歳、翻訳絵本「マッチ売りの少女」刊行。西武池袋コミュニティカレッジ「詩のことば、詩のこころ」の講座をもち、10年間つとめる。うわっ、今やったら、もちのろん、参加してたのに!
小池昌代も受講していたそうな。つい最近、知人2人からこの人の本を頂いたのだが、早く詠めってことやね。
酒飲みの吉原さん、この頃、バイクを買い、革ジャンで都内を突っ走るも酔っぱらって、行先に置いてくること多々ありとな。
49歳、「吉原幸子全詩」Ⅰ、Ⅱ(思潮社)刊行。まだ現役やのに、もう全詩集がでるってこれ、すごいねんで。
50歳、長兄急逝。相次ぐようにその翌月に母、急逝。
愛の詩もまた反戦詩であると、戦争に反対する詩人の会の発起人引き受ける。
谷川俊太郎とのジョイントコンサートで母をうたった詩を涙をぐっとこらえていくつか読む。
51歳 第8詩集「花のもとにて 春」刊行。新川和江と季刊詩誌「ラ・メール」創刊。最盛期には1300人もの女性会員がいた。
54歳 第9詩集「ブラックバードを見た日」刊行。第10詩集「樹たち・猫たち・こどもたち」刊行。
56歳 「新編 花のもとにて 春」刊行。「ラ・メール」5年目にして独立。自宅を多目的スペース「水族館」に改築し、作業スペースとする。
59歳、この頃より、手の震えなどあり、検査入院する。
61歳 どちらかが倒れたらやめようという独立時の約束通り、「ラ・メール」40号をもって終刊。
62歳 パーキンソン症候群。退院時に息子さんから猫のファーロンが死んだことを聞かされる。以後、自宅療養。
63歳 詩集「発光」刊行。第3回萩原朔太郎賞受賞。
70歳、肺炎にて逝去。

朗読、どれも長いです。私があたったやつも今までで一番長くて(他の人よりは短い)詩を見た途端、げっとつぶやいてしまう。
「無題(ナンセンス)」の途中の3行だけ記す

おそろしさとは
ゐることかしら
ゐないことかしら

この3行がこの詩では断トツに突き刺さる。いじめでよく言われるのはちょっかい出されるのはまだいい、無視されるのがこたえると。そんなことをふと思う。存在が恐ろしいのか、いなくなる、いないこと、無がおそろしいのか。

息子さんがトップバッターでいきなり当たる。間がよくて、録音しておきたかった。
原幸子の詩には死、命がいつも視界にある。さらっとしか読んでない詩集のほんの一部だけでもそういった言葉が私を取り囲んでいた。

私が朗読した個人的史上最大の長い詩(おい)は「仔犬の墓」小さい頃、犬を飼っていたらしい。
3連目がせつない、やりきれない

略 それににんげんは ことば あのむだなもののためにいそがしかった 略

愛犬の病気を、抜け毛を知らなくてごめんね。言葉なんかに振り回されていたんだ、忙しかったんだと。
生活の中で本当に優先すべきこと、ほんとにそれであってる?とどきっとさせられるような詩。

「幼年蓮祷・四」の「Ⅰ あたらしいいのちに」
じっくりとゆっくりと味わいたくなる詩
おまえにあげよう
ゆるしておくれ こんなに痛いいのちを
それでも あげたい
いのちの すばらしい痛さを

ぎざぎざになればなるほど
おまへは 生きてゐるのだよ

ぎざぎざになればなるほどってのが含蓄あるなあ。平坦な道を歩くよりもいろんなことを経験して削り削られ、進み、後退して。

「幼年蓮祷 三 」の「Ⅸ 空襲」
この詩を読んだとき、テレビで見た湾岸戦争の光の残酷な美しさを思い浮かべた。なに、これ、ゲームの世界みたいな。でも
現実に人が殺されてるんだよね。

人が死ぬのに
空は あんなに美しくてもよかったのだろうか

戦ひは
あんなに美しくてもよかったのだろうか

前にもとりあげた好きな詩「パンの話」これの裏話で息子さんが、教科書にこれが載る度、高校生がわからないとツイートしてくるらしい・・・学生よ、詩はわかんなくてもいいんだよ。正解はひとつじゃないし、その言葉が何を指してるか想像するのが楽しいんだよ。もっと面白い詩の授業してあげておくれよ、先生さん。
テストにでるからとか、詩はそんな杓子定規じゃないんだよ。
バラをたべるとでてくる。これ、ほんまに薔薇やろか?とじっくりじっくり考えてさまよってほしい詩なのだ。
答えをすぐに求めようとする、そういう時代にいる私も人のこと言えやしない、じっくり読まなきゃ。

もうひとつ「夏の墓」から「樹に」という詩
最後の行
間違はない 自然のなかに

人間は間違える 常に。間違わないときの方が少ないと肝に銘じておいたほうがいいかも。

これこそ教科書にのせるべしと盛り上がったのが「死ぬ母 −さらばアフリカ」
全部書きたいけどぐっとこらえて3連目
略 
でも、たべきれないほど殺しません
襲われないのに殺しません

アクセサリーにするためだけとか、角がほしいだけで動物を殺す恐ろしい猛獣の人間たち

思わず、そうだねと納得したのが「拍手」の最後の蓮

なぜ
本物の死者に
手をたたいてはいけないのだろう
‘よく生きた‘と

息子さんのお話しがもっと聞きたいので勝手に今度、リターンズを希望して終わり。