ポエカフェ最強ゲスト付きの田中冬二篇

今回は広島大学の学術博士、西原大輔氏がゲスト。これだけでも凄いのに更なる驚きのニュースが・・・田中冬二のお孫さんが今回のポエカフェに申し込んで下さったというではありませんか。ポエカフェが着実にじわりじわりと広がりつつあるのを、ぴっぽさんの地道な努力の凄さを改めて感じた。
田中冬二の本名は吉之助。1894年10月13日安田銀行員の父吉次郎、母やゑの長男として福島県にて生まれる。
両親とも富山出身で冬二はとりわけ生地≪いくじ≫(富山県黒部市)に生涯望郷の念を寄せていた。
1901年(目地34年)7歳で父逝去。東京の祖父の所へ行くことに。下男で仲良しだった銀蔵と上京、両国小学校へ入学。
9歳ー日本橋の東華尋常小学校へ転入。日本橋の母の元から通学。
1904年富山の祖父が死に、10歳で家督相続。その2年後に母も死に、この時は喪主を務める。孤児となり、叔父の安田善助のもとで養育される。弟と二人の妹たちとも離れ離れに親類の元へ引き取られ、後継ぎの立場上、我慢することも多く、寂しい少年時代を過ごす。
1909年14歳ー立教中学へ入学。淡々と進んでいるかのように思えるでしょ。違うんだな。もう既に会場は西原氏のきさくで温かい人柄を機関銃のように繰り出される面白い突っ込みからしっかりと感じ取っていたのである。立教ですからね、お金はあったんでしょうねと西原氏が適宜、場を和ませる雑談を楽しく挟んで下さる。学者さんがゲストというのでちょっと堅苦しい雰囲気になるかと思いきや、そんなのは自己紹介タイムで早くもすっとんでいき、アットホームな雰囲気の中、進んでいく。
卒業まで日本橋の小網町で生活。広島にも小網町ってのがあるんだぞと広島人は思うのだよ。小網町と言えばチンチン電車で通過するイメージが甦る。
1911年17歳ー読売新聞に短歌を投稿。『文章世界』へ投稿した短文「旅にて」が特選(田山花袋選)この時、初めて田中冬二のペンネーム使用。この頃、仲の良い友人たちの間で〜二というペンネームが流行ってたそうな。それで冬の好きな(私は夏が好きって聞いてないわっ!)吉之助はんは冬二としたそうな。なかなか見かけない素敵なペンネーム。一度聞くと忘れない名前だ。でもってこの後、一年、文学から遠ざかるって家督を相続したから?
1913年19歳の時、早大英文科を志望し、文学の道に進もうとするも孤児としての境遇から生活の為、、叔父に気を遣ったんでしょうね。進学断念。
行きたくても大学に行けない人がいる。自分は大学で何をしてたんだろう。日々の忙しさに追われ、漠然と通っていた己が恥ずかしい。
冬二はこの年、叔父の関係する第三銀行安田銀行、現富士銀行)へ就職し出雲の今市支店に勤務。以後、定年の55歳まで36年間銀行員として山陰、大阪、東京、信州、東北を転々とする。この頃の銀行の名前ってシンプルでええですね。最近のは、吸収合併でもしようものならもう長くてかなわん。
ここまで真面目で孤児でかわいそうなイメージしかない冬二に初の心配ネタが持ち上がる。20〜21歳頃、次第に遊興をおぼえて叔父たちに心配をかけたらしい。下宿に町の芸者が顔を見せるってさらっと書いてあんねんけど、もっと詳しく知りたいぞ、わたしゃ。
1918年大阪の堀江支店に勤務、短歌を始める。一枚の紙に印刷した歌集「凍れる愛」を友人に配布。これ、みたいなあと声を大にして言いたいところだが、5年後の関東大震災で燃えてしまう。ああ残念。大阪在勤の頃から詩作開始。1922年28歳ー詩誌『詩聖』へ投稿した「蚊帳」が第一書房社主長谷川巳之吉に評価される。1922年東京の銀座支店詰めとなり長谷川の絶えざる激励、詩作指導を受ける。堀口大學も応援されていたらしい。長谷川はんが目を付けた詩人は必ずブレイクしたとか。第一書房は書物の美にこだわり絢爛とした造本の豪華本を刊行、「第一書房文化」と讃えられたことで知られる、伝説の出版社である。
1923年の関東大震災で所有物一切を失う。友人と共同生活。安田銀行銀座支店に勤務再開。1925年31歳ー今井ノブと結婚し中野の桃園町に住む。ううむ、田中冬二って検索してもあまり情報が出てこないなあ。1926年(大正15年)32歳ー長女喜子誕生。翌年大井町に転居し、長男昭一郎誕生。
1929年第一書房にて堀口大學編集の「オルフェオン」創刊。ここに詩を発表。12月第一詩集「青い夜道」刊行。叙情的な風景詩人として詩壇に認められる。
1930年36歳ー詩集「海の見える石段」刊行。翌年次女の立子(たつこ)誕生。世田谷へ転居。
1935年41歳ー詩誌「四季」へ作品を載せ始める。詩集「山鴫」刊行。この年、衝撃的な出会いあり。11月になんとあの萩原朔太郎と偶然、渋谷で会って歓談。って何話したん??知りたいやんか!1936年刊行ラッシュはまだまだ続くのだ。「花冷え」刊行。でも銀行員としてもこのお方、ちゃんとやっていて浅草支店支店長代理となるのだ。
1939年45歳。お次は長野の支店長として長野市妻科へ。信州の土地柄を愛し、上諏訪支店長時代と合わせて最も心安らかで快適な時代と語り、多くの詩を作る。
1940年46歳ー詩集「故園の歌」刊行。48歳で今度は諏訪支店の支店長に。異動多いなあ。転勤族やねぇ。1943年49歳ー詩集「橡の黄葉」刊行。5月に堀口大學と戦争、戦争詩のあり方について語ると、これもさらっと終わっている・・・1944年戦争の影響で仲間の詩人たちも次々と応召される中、詩集「菽麦」刊行。郡山支店長。家族は疎開ってどこですかぁーー。
日本全体が戦争へと暴走していた時代によく、続けて本を出せたなあ。紙も配給制だよねぇ。
終戦の年、冬二51歳。「文藝」に詩篇掲載さる。第1回目の郡山空襲を体験。疎開先から徒歩で通勤。
1946年52歳ー転勤で上京。立川支店長。多摩郡日野町豊田(1963年より日野市)に住み、当時、日野に住んでいた伊藤整と交流。1947年53歳ー詩集「春愁」刊行。翌年、安田銀行は富士銀行となったんだべさ。1949年55歳ー富士銀行本店人事部調査役。9月に悲しい事件。長女喜子自死。ううむ、これも情報出てこない。ここまで出てこない詩人も珍しいなあ。結構、詩集だしてはるのに。昔は定年が55歳だったので、退職し、新太陽社の専務取締役に。雑誌「モダン日本」の救援に奔走。1930年に菊池寛によって文藝春秋社から創刊され、1932年にモダン日本社として独立、戦時中は『新太陽』に改名、戦後は新太陽社から復刊するが、1950年に『別冊モダン日本』として再生、1951年に廃刊。
1951年57歳ー高砂ゴム工業へ初出社。もうどうしてこうなったのかはどうせわからへんからグーグル先生に聞くのはやめやめ。58歳で北海道各地へ講演旅行。どこかからご褒美みたいなものでしょうか。還暦になると冬二さんは富士俳句会に出席されたそうな。
1960年66歳ー日本現代詩人会のH氏賞選考委員長。このHとは協栄産業を興した平澤貞次郎さんのことで彼の基金により1950年設立。若い頃、この人も詩を書いていたという。名前を出さないでとはなんて奥ゆかしい方でしょうね。でもこのHというイニシャルにしたことで却ってかっこいい響きになったような気がする。
1961年67歳ー詩集「晩春の日に」刊行し、翌年この詩集で高村光太郎賞。69歳ー酩酊し荻窪駅で転倒し眼鏡壊すも軽傷。
1966年親友の詩人井上多喜三郎(1902年生まれ)急逝。詩集「葡萄の女」刊行。1971年77歳ー日本現代詩人会会長に就任。紫綬褒章受章。1978年84歳ー詩集「織女」刊行。
1979年85歳ー詩集「八十八夜」刊行。
1980年3月、日野二中を卒業したお孫さんに校歌をピアノで弾いてとリクエスト。校歌を希望ってのが冬二らしいなあ。流行りの曲でもなく、孫の通った学校の歌を希望する。
4月9日85歳で死去。生涯に18冊の詩集を刊行。他、句集、随筆集など多数。

会話だけでももう十分に面白いことが発覚している西原氏。ポエカフェ参加者の朗読タイムもいかんなくその面白さを発揮してくださる。
西原氏は「くずの花」を朗読。いきなり僕の一番好きなのが残ってましたと嬉しそうにおっしゃる。この人の講義、受けてる学生はいいなあ、さぞかし楽しいでしょうね。
西原氏、一行目のぢぢいと ばばあが に猛烈アタック。これは、おじいさん、おばあさんじゃだめで、ぢぢいとばばあだからいいのだと熱く語る。黒部市宇奈月の黒薙温泉を舞台にしたこの詩。難しい言葉は一切なし。でも繰り返される山の湯のくずの花というフレーズがどことなく格調高きものにしている。
そして先生のイメージはぐーーんと広がっていくのでした。あぁ、こういう詩の授業だったら、詩が好きになるだろうに。
次の詩にはトラップが仕掛けてあります(笑)
「春」
すぺいんささげの鉢を

海洋測候所は報じてゐます

これね、最初の行と最後の行に造語が仕込んであるんです。こういう花はないし、海洋測候所なんてないんじゃよ、ワトソン君。いやぁ、やられたなあ。さもあるかのように。こういうのをオレオレ詐欺っていうんじゃろ、気ぃつけよう(ちゃうちゃう)しかもこのすぺいんささげ、他の詩にも堂々と出てくるから全くもって油断ならんやつなのです。
なぜすぺいんなのかというと、冬から春へと変わる解放感を出すため、南を連想させるスペインにしたのではという意見あり、ううむ、巧いなあとうなるばかりの私。
「ふるさとにて」という詩にも出てくるほしがれひ。この謎の干物、ほしガレイで会場は騒然とする(笑)ほしガレイなんてみたことないぞという意見といや、長野や新潟にはあるんじゃよという意見が出たのです。長野って保存食が昔からようけあったんでしょうね。海のない長野。魚は干物にすべきだと。干したカレイ食べてみたい。
「新しい沓下」ー銀行で苛立たしいことがあっても今日は新しい沓下だと思うとちょっと悲しい心もまぎれるという詩。新しい服ってそういう力がありますよね。
都会っ子でずっと銀行員だったけどほんとは冬二は田舎に、故郷に帰りたかったんだろうな。大地を自然を故郷を詩にする事は冬二にとって必要不可欠なことだったのかもしれない。
靴下の詩がまたでてくるとは思ってなかった。次はこれ。「幼きものに 二」

幼い孫の靴下に穴があいてゐる
ーーおぢいちゃん
読みもしない本なんか買はずに
ーーお酒もあんまり飲まないで
  靴下を買っておやりなさい

私が私に言ふ

突っ込みどころ満載のこういう詩は大好き。まず自分の靴下だけ新調しないでくださーーい、おぢいさま!でも自分で自覚してんだよね。最後の一行がちょっと自己弁護のようで憎たらしい(笑)3行目、これは本好きには耳のイタイ話。家にどんだけ読んでない本があろうともこれは!という本は買っておかないとすぐになくなるのですよとおぢいちゃんの代わりに言い訳してみました。
この「幼きものに 二」は笑えるんだけど「幼きものに 一」これがいいんです。最後の3行が特に!幼いものに来る難儀を私の余生に幸せが残っているならこの幼きものに残してやりたいと・・なんていいおじいちゃんなんだ、靴下のことは見逃してあげよう。
「薬売り」最後の2行
あなたの鞄の薬より その手風琴の音律が
私達には心の疲れの薬になるのですよ

薬ー手風琴
銀行ー詩  という対比を表しているのだろうか。都会っ子でずっと銀行員として働いてきた冬二。体は都会にあれども心は何かあれば故郷を渇望していたのかも。

「あぢさゐいろの夕の空に」
これはもう最後の行が憎たらしいくらいに上手くて笑点なら座布団2枚!と叫んでいるであろう。2行で情景を静かに詠み、最後の行で
わが青春の日の悔のやうに

読み終えて暗くなるでもない。悔いとあるわりには逆にすっきりしてしまう。こういう風に情景を詠えたらいいだろうなあ。
風景が自然が大地が冬二に詩を書かせているのだろうか。だとしたら間違いなく干物も冬二に詩を書かせているに違いない。
テキストにある俳句の≪シリーズ 干す≫座布団もう2枚だっ!
冬二といえばランプと言われるかもしれませんが、いやいや、今日からは冬二の俳句といえば干物ですよっと声を小さくして言いたい。
干物が大好きな冬二、晩年も詩作は好調で85歳の時の詩「永遠に若く」では
永遠の青春はクリアーなマインドで

この長嶋的、いやルー大柴的な表現はまさに若さを強調するが為か。85歳でこんなクリアーな詩が書ける?そういう意味でも冬二、恐るべし。

絶えず会話をリードし、時にはポエカフェ同人に質問までして下さった西原氏のお陰で敷居の低いポエカフェはいつも以上にピックアップ詩人に取り組みやすかったように思う。
この西原大輔氏のご著書「日本名詩選」1から3(笠間書院)、ますく堂でも近日入荷しますので会場で買えなかった方、詩の好きな方、いや詩の嫌いな方にも入門書としてよろしゅうお願いします。

日本名詩選1[明治・大正篇]

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日本名詩選2[昭和戦前篇]

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日本名詩選3[昭和戦後篇]

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