ポエカフェ 2月はたっくん篇

誰もが名前ぐらいはご存知であろう、石川啄木である。名前はとってもメジャーであるが、(メジャーだけど、漢字はややこしい)はたして、その実態は?人生は?というと、いやぁ、恐るべき事実が次から次へと明らかにされて、現代のワイドショーならほっておかないであろうな。
「たはむれに母を背負いて・・・」という歌だけは知っていた。そう、その歌だけのイメージで考えると非常に危険なのである。
明治18年、1885年の岩手生まれってのはいい。父は住職だ。姉二人、妹一人で、たっくんは長男で、しかも唯一の男子である。そして、奴は病弱・・・危険な香りがしてきたね。
夜中にゆべし饅頭が食べたいとダダをこね、家族に何度も作らせたという。
たっくん、小学生にして、神童、成人したら凡人ではなく、ずっと、天才なのだ。
盛岡中学で、とんでもない人物と出会ってしまう。たっくんがじゃなくて、相手の金田一京助が。二人は一目ぼれもとい、生涯の親友になる。とだけ、今は言っておこう。
15歳の時、先輩の金田一が見せてくれた「明星」に衝撃をうける。わたしゃ、ゆべしのエピソードに電撃だよ・・
「明星」は1900年創刊、主宰は与謝野寛の詩歌雑誌。ちなみに集英社のあの同音雑誌は1952年創刊のアイドル雑誌。意外と昔なんだね。
これに影響を受けて、短歌と詩を創作しだす。
そしてその翌年の明治34年刊行の「みだれ髪」(与謝野晶子)に烈しく傾倒。
みだれ髪といえば有名な
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」ってのがある。
この当時、女性が、こんなにストレートに恋愛表現してええんか!っと賛否両論の嵐だった。
天才たっくんは17歳で早速、「明星」に短歌が掲載される。だが、天才も木から落ちる。カンニングが2回連続でばれ、中学退学。たっくんは文学で名を上げ、早く上京したかったのだ。
だが、上京するもお金はないは、病気になるはで、1年で故郷へ。
18歳のころから、たっくんと命名じゃない、石川啄木と名乗る。
20歳、ここでまた大事件。住職の親父が罷免され、宝徳寺を出て行く。それもこれも親父が寺の裏の杉の木を切って売り飛ばしたり、収納金を滞納していたことが原因。じゃ、なぜ木を切ったかというと、たっくんの為で・・・。ここから、石川家にずーーーっとついてまわる貧困の二文字。
この年、初めての詩集「あこがれ」が強力助っ人のおかげで刊行される。序文が上田敏。これ、難しいのだ。文語定型詩が盛り沢山で、雅語、古語などのオンパレード。かたや、天才という評価があれば、かたや、薄田泣菫蒲原有明のパクリやんという声と評価で分かれた。
たっくん、この年はいつにもまして波乱万丈で、盛岡に移住する。とあるお家の空き家に一家で住む。そして、そして、節子と結婚。こんな貧乏生活で結婚資金なんかあんのかと突っ込もうかと思っていたら、もっと恐ろしい結末が待っているのだ。
珍しく、清水書院の「石川啄木」で予習していた私は、ここで怒りの鉄槌を振り下ろそうかと3秒くらい、悩んだ。
なんとたっくん、式のお金でバイオリンを買い、豪華な旅館に泊まって遊び尽くし、式はドタキャン・・・そりゃ、式のお金使ったら、出れんわなぁっていうか、何しとんねん!周囲の厚情のおかげで式をやることになっていながら、コイツは・・・・ストレスたまっている女性の方は、決して、啄木の人生本を読んではいけませぬ。
よく三行半突きつけられなかったものですな。
さて、気を取り直してと。1906年高等小学校の代用教員になる。金銭感覚、経済観念ゼロのたっくんも子供たちには人気があった。道徳の大切さを教えたとある。道徳??啄木が?あんたの私生活は道徳からはずれてないかいな。
学校を私物化する校長と対立。結局、この事件は喧嘩両成敗で、二人とも辞職。
ますます、貧乏。一家離散。妻子を宮崎郁雨という、寛大な文芸仲間に預け、北海道へ。宮崎君、預かったらあかんて!野放しにしたらあかんって!
1908年、夢諦めきれず。再び、単身上京。森鴎外の観潮桜歌会に初出席し、べた褒めされる。12点ってすごいらしい。満点って何点なの
金田一といったら、金田一少年しか頭にない私だったが、今日からは違うのだ。啄木を物心両面で支えに支え続けた人がいるということを頭に叩き込んでおきたいと思う(笑)
金田一はたっくんと本郷に二人で下宿。その下宿先でさえも家賃が払えず、引越しすることになったときもこいつのせいなのに、「僕も連れていって」と甘えるたっくんを喜んで連れていく。この引越しの為に、金田一君は蔵書を本棚ごと売り払ってお金を工面したのだよ。
たっくんごときに、私はコレクションの絵葉書を絶対売るもんかと固く決意(おい)
たっくん、この頃から、驚異的なペースで短歌を制作。3日間で255首とか。1908年の1年だけで1576首も制作。
「明星」がこの年、廃刊になり、新雑誌「スバル」が創刊の運びとなる。たっくんは編集兼発行人となり、翌年創刊。
自然派小説家を目指し、小説を書くも文壇からは黙殺。自殺願望芽生える。
周囲への借金、放蕩生活は相変わらず続く。病弱な割には、よく遊ぶよなあ。
この男、借金を頼む手紙がすこぶる上手だったらしい。が、反面、借金を返したことがなく(どうにかしてくれ・・・)、悪評も広まる。
朝日新聞の校正係をしていた頃に北原白秋の「邪宗門」を読み、驚愕。
「パンの会」という新しい芸術運動の盛り上がりに、孤独感を味わう。
この頃、たっくん、ローマ字日記を書く。当時、ローマ字なんて、庶民にしたらちんぷんかんぷんで、啄木の妻も勿論読めない。節子さんにしたら、暗号みたいなもんでっせ。ろくなこと、書いてないんだわ、これがまた。ということは第三者にしたら、こんな面白いもんはないということですな。
4月から3ヶ月、そんなしょうもないことしてた、たっくんのとこに、妻子が上京する。
評論「食ふべき詩」を書き、芸術至上主義から、人生至上主義へ方向転換。
1910年、25歳。幸徳秋水大逆事件。これにたっくん、すごく重要な関わりをする。新聞社に勤めていた啄木は、公判記録などを入手し、研究して「時代閉塞の状況」や「A LETTER FROM PRISON」を執筆。社会主義へと傾倒していく。
10月生後3週間の長男の死。12月に第一歌集「一握の砂」刊行。
「あこがれ」のあの難解さとはうってかわって、生活をテーマに、尚且つ、三行書きという手法が、歌壇に新しい風を吹き込み、好評。
1912年3月、母カツが結核で死去。4月後を追うように啄木永眠。6月に第二歌集「悲しき玩具」刊行。翌,大正2年、節子結核にて死去。
短歌は玩具だという啄木だが、生涯で作った数はおよそ4100首。15歳から26歳まで、一首も作らぬときは一年もなかった。短歌製作マシーンのごとく、泉からわきでていた。まさに歌の人、歌うために生まれてきたのかもしれない。
たっくん、借金はするは、放蕩三昧やしと、ポエカフェでもぼろくそにいわれていたのだが、それでも人気は根強い。啄木、最後の地の文京区、小石川の旧跡にはよく出るらしい、節子さんの幽霊が・・・じゃなくて、啄木ファンが。図書館の近くというからには行かねば。ついでに古本屋が近くにあるといいなあ。
一番読んでみたいのがやはりあの「ローマ字日記」(岩波文庫
これ、男性はうむうむ、そうなんだよ、いいこというなあって思う人もいるのだろうか。世の中の女性全部、敵にまわす覚悟でどうぞ(笑)要するに、浮気しても、それは妻とは関係ないと開き直っているのだ。現在の夫婦制度が間違っていると、かの御仁は書いておられます。
私は
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
この歌だけを知っていて、なんていい歌を作る人だと思っていたが・・・
ポエカフェでは、勿論、この歌もいろんな解釈、ナルシストだ!という意見など喧々諤々であった。
私はこの歌を、数年前、入院中の祖母のあまりの小ささに思い出していた。
親不孝な啄木が試しに背負ってみて、余りの軽さに、今までの自分を反省して歌ったと思いたい。あゆまずとあるが、歩けなかったのだ。衝撃をうけて。
長男を亡くした時のうたがまた、いいんだよね

かなしみの強くいたらぬ
さびしさよ
わが児のからだ冷えてゆけども

最初の2行が巧い。かなしみとさびしさが逆になっていたら、これはここまで突き刺さる歌にはなっていなかっただろう。

これも率直な歌でうならざるを得ない

はたらけど
はたらけど猶わが暮らし楽にならざり
ぢつと手を見る

ポエカフェで楽しく学んだ今となっては、暮らしが楽にならんのはお前のせいやとかなり突っ込みたい。
手を見て啄木は何を思っただろう。働けどというが、病弱でもあったし、
肉体労働なんてしないだろうから、きれいな手だったかもしれない。こんな手じゃ稼げないよなと思ったか。
はたまた、この手から繰り出される己の短歌や小説はなぜ、銭にならぬのかと
自問自答していたか。

表現の巧い歌はほかにも沢山ある。
赤煉瓦遠くつづける高塀の
むらさきに見えて
春の日ながし

赤煉瓦がむらさきだよ。ううむ、赤煉瓦このへんにあったかなと、確かめたくなる。

Iさんが絶賛していた歌、これもすごい

寂寞の大森林を一人ゆき
ふと来方をわすれし思

金田一京助の本が読みたくて仕方ない今日この頃だ。