ポエカフェ 杉山平一編

今年の5月に亡くなった西の大御所、杉山平一。
勿論、私は知らず、5月にとある方の呟きで、この人の名前を初めて知る。
毎回、美味しいカッカさんの特製フード。今回の豚肉の塩麹サンドとラムボールがこれまた、大当たりだ。予習をしなくても楽しく学べる、敷居の低いポエトリーカフェというだけでも参加する楽しみがあるのだが、この特製フードを目的に参加してみるのもありだと思う。というくらい旨い。
特製フードのベストテンを投票で決めるのも面白いかも。そして年末にまたベスト3はカッカさんに作ってもらうのだ(笑)
1914年、会津若松生まれ。父は電気技術者で、翌年、神戸へ。
でいきなり、年譜は17歳へジャンプ。
17歳の時、数学が受験科目にないことで倍率の高い、島根の松江高校へ入学。ほぉ、数学がないとは・・・素晴らしい(笑)一年上になんと、花森安治
寄宿舎で生活、この頃、映画にはまっていく。
この人、詩人としてより、映画評論家としてのほうが有名なのかもしれない。ということで、今回の自己紹介のテーマが、私と道造ではなく、「私の一番好きな映画、もしくは最初にみた映画」
こらまた、いくらでも長くなりそうなテーマやなと思っていたら、駄々さんが「突っ込みなしで」と釘をさしたのはいいが、「パンズ・ラビリンス」というスペイン映画の話を他の人がしだすと、もう暴走・・・おかげで会場は大爆笑。あぁ、面白い人やわ。
結局、20人の自己紹介で50分くらいかかったでしょうか。小熊氏の時は、1時間でしたから、皆さん、簡潔に頑張りました(笑)
20歳の青年が「旅芸人の記録」って・・・渋すぎるやろ。私がみたことあるのは「ロッキー」だけでした。まぁ、皆様、よく映画もみていらっしゃいます。私もロッキー好きなんです、あれは泣けるんですよ。久しぶりに見たくなってきた。
他にも「トップガン」「エイリアン2」は聞いたことあるけど。そういえば映画は長すぎて15分しかもたないから観れないという衝撃の発言もありました。というわけでどなたか15分以内のおすすめ短編映画がありましたら、お知らせください(笑)
杉山平一は特に小津安二郎山中貞雄に熱中。油絵を描き、詩を書き、映画評論を書きとマルチな活動だなあ。
20歳。花森を追って、東京帝大美学科へ入学。
この年に(1934)創刊された「四季」に感銘受け、投稿しだすもしばらくは掲載されず。しばらくして、三好達治に見出され、掲載されるようになる。
22歳の時、同年生まれの立原道造にも会う。道造の4倍近く生きてた杉山。
道造が同じくらい長生きしてたらとも思います。
1938年、主婦の友社に入社。その後、軍に入隊するも膝の故障(リウマチ関節炎)で除隊。
翌年、道造逝去。父の会社を手伝うために帰郷。
この父の工場がずーーっと杉山の肩に重くのしかかっていくことになる。
貧乏で女たらしというのが定番の近代詩人において、やっとまともな詩人が出てきたかと思いきや、父が・・・すごかった(笑)
工場が全焼。でも父、諦めない。1956年、破産宣告。それがどうした。破産宣告が解けたら扇風機を輸出。平一、資金繰りに東奔西走。
1964年、電車賃さえなく、三好達治の葬儀にさえもゆけず。
1966年には工場破産。従業員の大半が離散。実家はじめ、家財道具一切失う。でもオヤジ、諦めない・・・一部操業していたのだ。
1978年父は亡くなるまで工場再建に力を尽くす。
工場の話からちょっと前にもどってと、1941年(27歳)第二回中原中也賞を受賞。第1回が立原道造なのだ。この二人、いろいろとつながっていますね。
翌年、挙式するも披露宴半ばに日本発の空襲警報発令し、散会って・・・おーまいごっど!!
竹中郁が祝辞スピーチで中原中也賞って、芥川賞くらいすごいんですよと言うも、出席者のほとんどが、中原中也を知らんかったとか。あぁ、無情。中也もまだ無名だったのね。
1943年、第1詩集「夜学生」刊行。そして、長男生まれる。
が、悲しいことに終戦の年の2月に長男、病気で亡くなる。
この年、更に父の工場が空襲で全焼と悪い出来事相次ぐが、次男が7月に生まれるという明るいニュースも。
1947年には3男が生まれる。1950年にはジェーン台風で福井に再建していた工場が倒壊するというどこまでも祟られる工場よ・・・
工場の話はもうええとして、1987年には語呂合わせの部数にしたとしか思えない詩集「木の間がくれ」刊行。87部限定の85
00円.どうせなら8700円にすればいいのに。
そして去年の東日本大震災。最後の詩集「希望」刊行。現代詩詩人賞受賞。
今年97歳で死去。
この人、20代から詩を書き、90代まで生きたから、70年書いたとして、7冊しか出してないから10年に1冊のペースで詩集を刊行したことになる。
杉山平一の詩集を事前に少し読んで、まず飛び込んできたのがこの詩。特に気に入った箇所だけ引用します。
「黒板」
何ごとにも識り分けること少なく
生きることに対し
またも自分は質問の手をあげる

帝塚山大学の専任教授もしていた杉山らしい詩だ。自分は熱心な生徒でありたいともこの詩の最初のほうで詩っている。

今回、杉山平一の詩を参加者が朗読していて、何度もでてきた感想が「この1行いらんわ!」
例えばこれ。最後の2行に注目。
「橋の上」
そんな気持ちでホッとする
人間は孤独だから

この最後の1行の説明がいらんという意見なんですよね。詩とは説明することなのか、それとも削って、そぎ落として、わからないからいいのか。あなたはどっちでしょう。
1行いらんわシリーズ、もういっこ、あげましょう。失敗らしいんでこれも最後の1行だけ。
「失敗」
無事に通過させてください 神様

これ、詩自体は面白い。失敗するとペロリと舌を出す。あれな何であろうと、ふむふむ、いいこというじゃんと思わせておいて、
最後に神様・・・(笑)
諺に「始めよければ全てよし」と「終わりよければ全てよし」ってありますけど、初めよくっても終わりがあかんとなあ。というのが私の人生の体験的感想。私はいつも最後がよくなくて
ろくなことにならない。

そうかと思えば、こんな想像膨らむ詩をこの教授は書いている。
「電話」
だれも居ない部屋
しきりに電話が鳴ってゐる
あヽ このむなしい日日に
また何かヾあせってゐる

この詩をもとに4こま漫画を書きなさいという宿題なら中学生も楽しいでしょ(笑)
真夜中に電話がなると嫌な予感が走りますよね。

杉山平一の詩はどれも平易でわかりやすくてとっつきやすかった。だから「ぜぴゅろす」所収の「問い」なんて詩を読むとどきっとする。
「問い」
手段がそのまま
目的であるのはうつくしい
と冒頭にカウンターパンチをくらわせておいて、

「なんのために生きるのです」
そんな少女の問いかけに
「問いはそのまま答えであり」と
だれかの詩句を心に呟きつつ
と続いていく

問いはそのまま答えでありを検索すると、伊藤静雄の「そんなに凝視めるな」の中にでてくるのだが、ここからとったのかな。
これ、学校の先生に「問いはそのまま答えです」なんて言ったらしばかれますかね(笑)

気に入った詩を他にもいくつか取り上げてみましょう。
「目をつぶって」
これは最後がいいんです。さんざん、1行いらんとけなしておいて何ですが・・・(笑)
これから おれは
目をつぶって 行く
いつも俺の前には標識がたちはだかる。行き止まりとか、入場するなとか。
工場再建が苦しかろうが、愛するわが子を病で失ったりと壁がたちはだかるのなら
俺は目をつぶってでも前に進むよという強い決意がうかがえる。

「木の間がくれ」掲載の「汚す」もいい
わざとしわを作った
友達となじむため

最後の行でも世間と折り合うため 僕はいまも少しくずしたり、汚したり、うそをついたりするとうたっている。
これもちょっと最後の1行がいらないほうがシャープになるような気がする。

でもこうやって説明したり、平易な詩を書くのは工場命!の親父の影響が大きいのかもしれない。
「単純についてー父に」の詩では
シンプル イズ ベスト
単純は 最善だ と

この言葉、きっと親父の座右の銘だったんだろうね。機械は単純じゃないとだめだというのが口癖だったとのこと。
お父様、工場再建までの道程は単純じゃなかったと思われますが・・・
このシンプルイズベストが杉山の詩の根底にあったんだろう。

「黒板」の次に目に飛び込んできたのが「夜学生」だった
僕は信ずる
きみ達の希望こそかなえらるべきだ

うん、ここ、いい。

わからないなりに最後にほっとしてしまうのがこの詩
「わからない」
父は母に怒鳴り、負の連鎖は強いものから弱い者へと引き継がれていく。母は兄に。兄は妹にやつあたりをしていく。
でも妹は犬の頭をなでてよしよしと言ってやるのだ。
負の連鎖を断ち切った妹。ずっとこのまま育ってほしいな。

杉山平一の詩ほど最後の1行で勝敗が分かれる詩人も珍しいかもしれない。
これは、最後の1行が強烈にいいパターン。
「希望」
去年の震災についての詩だ。不幸や悲しみの事件は不意に闇の中に放り込んでしまうが我慢してればよいと。
光がぐんぐん拡がって迎えにくる筈だから負けるなと強く結んでいるのがいい。