ポエカフェ ヘッセ篇

第71回目はドイツ4連発のラストを飾るヘッセである。
前回、自己紹介で会話で格言を絡めるのは好きじゃないと言い放った青年が今回は更なる衝撃発言。私とヘッセ、もしくは少年(少女)時代の楽しかった思い出か悲しかった思い出と自己紹介のお題を告げられたのだが、
この青年、『デミアン』などを読んだがヘッセは嫌いだと発言し、ぴっぽ氏思わずその場に倒れる(笑)次回の自己紹介ではどんな爆弾発言をしてくれるだろう、あぁ楽しみだ(おい)というわけでとりあげる詩人が嫌いでも参加できるおおらかな学び場のポエカフェであります。
だがこの青年がただものじゃないのは、なぜ嫌いかという原因をきちんと把握していることなのである。ただ漠然とあかんというわけでなく、こういうとこが好かんと。ちゃんと批評のできる人っていうのは彼みたいな人間を言うのであろう。
ヘルマン・ヘッセは1877年南ドイツのカルプで生まれた。父はプロテスタントの宣教師で、短期間インドで布教活動をしていたので、ヘッセにも東洋思想が育まれる。
4歳から9歳の間、父が「バーゼル伝道会」の教師として働くことになり、バーゼルで暮らす。なんとこの頃、新島襄バーゼル伝道館に来て、ヘッセと会っているという。
13歳の頃、ヘッセ決意。【詩人になるか、さもなければ何にもならない】
ここ、アンダーラインなのだ。赤く強い線でぐいっとマーカーなのだ。
ヘッセは学業優秀だった。そして親父は厳格だった。15歳でマウルプロンのプロテスタント修道院神学校へ。だが7か月後に逃げ出す。このあたりのことを書いたのが「車輪の下」である。
詩人として生きたいという思い、更に強まる。この頃、情緒不安定。6月に自殺未遂。6月から8月まで精神病院へ。ここで死んでいたら、文豪ヘッセ
はいなかったのだ。文学者としてぴっぽさんが一番大好きというヘッセが。16歳で書店員見習いをやるが3日でやめ、父のもとで助手として働く。
17歳ーカルプの塔時計工場で機械工の見習いとして、歯車のやすりかけをする。18歳(1895年)から99年までヘッケンハウア書店で働く。この書店にぴっぽさんも行かれたことがあり、日本から来たというと歓迎されたとのこと。ヘッセコーナーがあり、目録室のようなとこへも案内されたという。ヘッセはこの時期に最初の詩を発表。22歳で最初の本「ロマン的な詩集」がドレースデンのピーアソン社から出る。
1899年(22歳)バーゼルライヒ書店で古本部に勤める。「一般スイス新聞」に最初の記事と評論。スイス各地を旅行。1901年(24歳)になるとバーゼル古書店で書店員として1903年まで働く。
25歳ー母に捧げたかった『詩集』がベルリンで刊行されるもその直後に母亡くなり、間に合わず。9月にはカルプで「車輪の下」の執筆。
26歳の時、9つ年上のマリア・ベルヌリと婚約。翌年結婚。
この年『ペーター・カーメンツィント』(郷愁)がベルリンのS・フィッシャー社から出て文筆家として初の大成功。この出版社が超一流で、こんなとこから出るなんてヘッセはすごいのだ。日本でいうところの岩波みたいなことやね。
29歳であの名作「車輪の下」が刊行。前の年に長男誕生。32歳ー次男誕生。
34歳インドなどへ旅行するも病気になり、落胆して戻る。3男誕生。

http://www.hermann-hesse.de/ja/node/964 長男ハイナー・ヘッセの思い出というこの頁が面白い。息子たちに想像力を育むゲームをさせてたかと思えば、文学的な話題は殆どしなかったという。
35歳ーロマン・ロランとの友情始まる。
1914年(37歳)戦争勃発。ヘッセは志願するが軍務に耐えられないと猶予され、ベルンのドイツ総領事館に配属。ドイツ人戦争捕虜救援の任務につく。捕虜たちのために読み物を供給。ってヘッセにうってつけではないか。
この年から1919年まで政治的論文や警告文をドイツ、スイス、オーストリアの雑誌に発表。ドイツのジャーナリズムから売国奴、裏切者等レッテルを貼られ、徹底的にボイコットされる。
1916年(38歳)災難相次ぐ。父の死、妻の精神分裂症の発症(彼女は神経質だった)、末息子マルティンの重病などから神経症となり、ユングの協力者のラングに心理療法的治療を受ける。42歳ー妻や友人に預けた子供たちと別れ、スイスのモンタニョーラに転居。
「デーミアンーある青春の物語」をシンクレールの偽名で刊行。これがベルリンの新人文学賞を獲得してしまったからさぁ大変。バッシングの多かった時期でそれでも小説を書きたかったヘッセは偽名で出したのだが、これが皮肉にも賞を受賞。後で勿論、賞は没収。
この頃、絵を描くことに目覚める。44歳の時にはユングのもとで精神分析。まさかこんなとこで大学でお馴染みだったユング殿にお目にかかるとは・・学問も人もいろんなとこでつながっている。
46歳でマリアと離婚したヘッセは翌年、20も年下の歌手ルート・ヴェンガーと二度目の結婚。でも50歳の時に妻の希望で離婚って・・・もう何もいうまいて。
53歳ーぴっぽさんが一番好きという「ナルツィスとゴルトムント(知と愛)」刊行。ヘッセ54歳で3度目の結婚。今度は文化史専攻のニノン・ドルビン女史。ニノンは初婚かと思いきや、再婚であった。このお方、14歳の時にヘッセの「郷愁」に感動し、手紙を書いていた。ここからヘッセと文通が始まったのだ。すごい縁ではないか。でもヘッセ、やはり年下好きなのね。ニノンは18歳年下。ヘッセは病弱なんだけど、筆まめだったという。第1次大戦の時もヘッセのバッシングはひどかったが第二次大戦でも同様だった。1939年頃からドイツで望ましくないものとされ、ヘッセの様々な作品の再版が禁止される。
1946年(69歳)ヘッセ作品復活なのだ。フランクフルト市のゲーテ賞とノーベル文学賞のW受賞。が、権威なんかに興味のないヘッセは式には出なかった。
85歳逝去。
ヘッセ、有名となり訪問者が続々とくるのに嫌気さす。そこで門にもう老兵なんだからそっとしておいてほしいといったような貼り紙をしていたらしい。この貼り紙に配慮してトーマス・マンは家の前まで行って会わずに帰ったとか。だが、高橋健二はヘッセと3回も会ってるというからあぁ、摩訶不思議。ヘッセといえば一番有名なのは「車輪の下」そしてヘッセの訳者といえば高橋健二。この人、ゲーテケストナーの作品も訳しているドイツ文学者。
精神のなぐさみに絵を描いていたヘッセ。邪心もなく、素朴な絵だったらしく、いいなあ、そういうの。写生とか大の苦手なんすけど(笑)
さぁ、長生きのドイツ詩人たちはとかく年譜も大変です。やっと詩にいきますよ。
「私は星だ」これ、意味深です。テキストの先頭バッターなんだけどいきなりホームランでカウンターパンチ浴びせたような。

私は夜ごとに荒れる海だ。
古い罪に新しい罪を積み重ねて、
きびしいいけにえを捧げる嘆きの海だ。

罪や生贄なんて言葉がでるあたり、宗教を感じさせる。
罪とは何を指すのか。生贄とは何か。
そんなことを考えながら最後の行がまた目に突き刺さる。

自分の力のために病んでいる。

ちょっと充電してるんですよとどこか前向きな。そう暗さではなく、どこか力強さを感じるのだ。病んでいるのだけども。

私が朗読したのが「けれども」
いきなりけれどもで始まるものだから、何が?と突っ込みたくなるでしょ。
これも悲観的というより、前を向いているのだ。傷と苦さと悲しみのみの青春だったとしても後悔してませんよと言っている。
ヘッセ嫌いの青年が詠んだのが「わが母に」
感想を問われ、青年曰く「僕に言われても・・・」と取り付く島もない(笑)
最後の2行が包み込んでいくようでいい。

言いようもなくやさしいあなたというものが
千もの糸で私を取り巻いているのですから

「独り」は勇気がでてくる。最後の6行だけ抜粋。

だが最後の一歩は、
自分ひとりで歩かねばならない。

だから、どんなつらいことでも、
ひとりでするということにまさる
知恵もなければ、
能力もない。


「せつない日々」は強烈な恋文だよ

火、太陽、澄んだ星さえも私を慰めないとある。
恋もまた死ぬということを知った日からと最後にずどんです。

「美しい人」も強烈なボディブローを浴びせている。いや浴びたからこういう詩ができたというべきか。私の心をおもちゃのようにもてあそび、
私が悩むのを目にもとめないというんだから、残酷ではある。

「書物」これまた含蓄ある詩で書物はおまえに幸福をもたらしはしないとある。書物はおまえをおまえ自身の中に立ち帰らせると。
本や書物がキーワードの詩ってあまりみかけないんだけど、でもポエカフェで紹介された詩はどれもいいものばかりだ。
書店の入口にでも貼っておきたくなる詩だなあ。

「短く切られたカシの木」は断然、この1行でしょ

だが、私というものは金剛不壊だ。