ポエカフェ 茨木のり子篇

遂にきた。まだまだやらんじゃろうと思っていた茨木のり子である。
朗読の片道切符を途中でぴっぽ師匠に「これにしんさい」と一番好きなあれに変えられる(笑)
1926年大阪で宮崎家の長女として生まれ、2年後、弟英一誕生。
5歳(1931年)医師の父の転勤で京都へ。翌年お次は、愛知の西尾市へ。
1937年日中戦争起こりし年に母の勝死去。
17歳(1943年)上京し帝国女子医学、薬学理学専門学校(現・東邦大学)薬学部に入学。といっても理系を彼女自身が目指してきたというわけでなく、女性も自立すべきと手に資格を持っておくべきという父の考えで薬学部へ行けということになり、それで行ったのであった。
1945年19歳で敗戦の放送を聞く。翌日、東海道線を無賃乗車で郷里にたどり着く。
翌年(20歳)薬学部を繰り上げ卒業。当時、国家試験はまだなく、卒業と同時に薬剤師の資格を得る。が彼女は演劇好きで理系好きでも得意でもなかったようだ。一度、もうやめたいと父に訴えるもそれくらい全うできずに好きな道もやっていけるとは思えないというようなことで説得されて何とか卒業までは頑張る。
遠津御祖等(とおつみおやたち)という戯曲が読売新聞第1回戯曲募集で佳作入選する。選者の一人にあの村山知義がいた。
1948年(22歳)自作童話2編「貝の子プチキュー」「雁のくる頃」がNHKラジオで放送。童話作家、脚本家として評価される。
1949年23歳で三浦安信とお見合い結婚。西武ライオンズの本拠地、所沢に住む。詩人としての名前、茨木のり子は歌舞伎「茨木」からきてるらしい。
http://kumasabo17.exblog.jp/22835387 ここのサイトが詳しく教えてくれています。
1950年 「詩学研究会」(選者村野四郎)に初投稿したうちのひとつ「いさましい歌」が掲載。以後、1952年まで投稿を続ける。ここで初めて茨木のり子の名を使用。
1953年同じく「詩学」の投稿者の川崎洋からの誘いで同人誌「櫂」創刊。
やがてここに詩壇のビッグネームたちが加わる。谷川俊太郎吉野弘岸田衿子大岡信、中江俊夫などで昭和生まれの詩人たちの最初の大きなグループとなる。戦後生まれのでっかいグループといえば「荒地」と「櫂」
を答えれば満点なのだ。
1955年29歳で第一詩集「対話」刊行。翌年3月神楽坂に転居。
31歳の時、「櫂」解散。32歳の時、このお方がなんと豊島区池袋に転居。うぉぉとなったけど10月、住宅難で保谷市(現・西東京市東伏見に終の棲家となる家を建てる。ああ、もう住宅難じゃなかったら!
この年、第2詩集「見えない配達夫」刊行。
1961年3月、夫がくも膜下出血で入院。
1963年4月父死去。弟英一が跡を継ぐ。
1965年詩集「鎮魂歌」刊行。「櫂」復刊。
1968年「わたしが一番きれいだったとき」(英訳)CBSソニーレコードより発売。フォーク歌手ピート・シ―ガ―が『When I was most beautiful』として曲をつけた。
1969年「現代詩文庫20 茨木のり子詩集」刊行。
1971年「人名詩集」刊行。「櫂」の会連詩始まる。
1975年45歳。最愛の人、夫安信、肝臓癌で死去。奇しくも金子光晴もこの年に死去。11月「言の葉さやげ」刊行。
50歳で茨木のり子はハングルを先生について習い始める。このへんのくだりも「清冽」(後藤正治)という彼女の評伝に詳しいのだが、朝日カルチャーセンターで講座を受講する。その先生が金裕鴻(キムユホン)でその先生も生徒に指摘されるまで詩人が受講しているということを知らなかった。1977年「自分の感受性くらい」刊行。
1979年「詩のこころを読む」刊行。
1982年詩集「寸志」刊行。1986年還暦。「ハングルの旅」刊行。
1990年翻訳詩集「韓国現代詩選」刊行。翌年、この本で読売文学賞
1992年「食卓に珈琲の匂い流れ」刊行。
1999年「倚りかからず」が10月16日の朝日新聞天声人語」に取り上げられ、詩集としては異例の15万部の売上を記録。
2002年「茨木のり子集 言の葉」全3巻刊行。弟英一死去。
2004年川崎洋石垣りんが死去。2006年くも膜下出血のため自宅で死去。甥の宮崎治が発見。葬儀も行わないというのがいかにも彼女らしい。
2007年「歳月」刊行。
さぁて詩にいきますよ。
「こどもたち」
まず1行目がよい。
こどもたちの視るものはいつも断片

断片しかみてないのだからわかりゃしないよとたかをくくる大人たち。
でもこどもたちは一つ一つとの出会いがすばらしく新鮮なので永く記憶にとどめているよと。どきっとさせられるのだ。

「もっと強く」
これも実にわかりやすい。彼女の詩がどれも難解な言葉など使わずに本人が言うように解釈が必要な詩を書いてるつもりはないと。それ故にちょっと苦手だという意見もあった。

もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始りはしないのだ

と最後の1連。好きなことに貪欲に突き進めと目指すものにもっとむき出しで向かえと。じゃなきゃ、何にも始まらないよと背中を押している。

「ぎらりと光るダイヤのように」
こういうことを普段考えもしないから余計にどきっとさせられるのだろうか。図星すぎてそこに驚く。

じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう

「わたしが一番きれいだったとき」
これは反戦詩といっていいのじゃないか。声高々に戦争反対やねんと叫んでるわけではないが、痛烈に皮肉っている。

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか

国に対してストレートに馬鹿って言える、ここが凄い。
でも戦争で負けたっていうより戦争自体いけないんだともっと噛みついて
ほしかったとも思う。
と考えながら読んでいたら最後の一連できっちり皮肉たっぷりに

だから決めた できれば長生きすることに

と強い決意がある。

「自分の感受性くらい」
これもまたずばりで解釈なんて必要のない直球勝負の詩である。

一行目から矢が突き刺さって最後にズドン。

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

これは無論、作者は己自身に言っているのであろうが、読んでる私にも
自分に向かって言われているとしか思えないのが逆に悔しいと言おうか(笑)
この詩は日頃、自分がいかにくだらん言い訳をしているかたっぷりと反省させられる。

落ちこぼれてもいいんだと思える詩がこれ。金八先生でも取り上げられたあの詩である。

「落ちこぼれ」

落ちこぼれ
結果ではなく
落ちこぼれ
華々しい意志であれ

何かが苦手でもたった一つでいい。好きなことを見つけてほしい。
「自分の感受性くらい」とこれも教科書に載せてほしい詩だな。

これも彼女の詩の中で有名な「倚りかからず」
「自分の感受性くらい」とセットで読んでほしい。
もはやで始まるこの詩。できあいの思想や宗教、学問には倚りかかりたくないと。自分の頭で考えることの大切さを教えてくれる。

教訓めいた詩ばかりかと思ったら、彼女の死後に刊行された「歳月」だけはちょっと様子が違う。この詩集だけは誰にも批評されたくないと生前の刊行を拒んだ最愛の人への詩集。谷川俊太郎もこの詩集はいいねと。

「歳月」
真実を見きわめるのに
二十五年という歳月は短かったでしょうか

この詩集の中でも特に好きな詩が「一人のひと」

ひとりの男を通して
たくさんの異性に逢いました


最後に大事な告知。
11月7日(19時半開始)にツイードブックスさんで開催の「ひとつき十冊」これに
ポエカフェ同人のあの博識青年、宮本君がゲストでどーんと登場します。
最寄駅は白楽駅。お手すきな方は是非とも駆けつけてくださいまし。