ポエカフェ 八木重吉篇

今回、初参加が女性5人。男性陣が5人。複数回参加の女性多数(笑)ということで女子率高いポエカフェでした。麻雀大会をこなしてからポエカフェに駆けつけるという強者(何を隠そう、主催者の母上である)もいらっしゃいました。
八木重吉ー1898年(明治31年)2月9日現在の町田生まれ。代々農業を営む裕福な家の次男です。近代詩人って超裕福か、超超貧乏の二つに分けられます(笑)
10歳の時、神奈川の尋常小学校へ通い、12歳の時、再従兄の加藤武雄の教えを受ける。
17歳ー『タゴールの詩と文』愛読。学内の詩の会に加わる。英語の成績が優秀だった重吉君は英語への興味から、日本メソジスト鎌倉教会に通う。
19歳ー東京高等師範学校文科第3部英語科に入学。寮生活。聖書を愛読。聖書こそが世界一の書物として敬虔なキリスト教信者となる。この頃、内村鑑三にもビビっときて、大きな影響受ける。油絵を描き始める。
20歳ー北村透谷、オスカー・ワイルドを愛読し、自分の中の「かなしみ」に概念が明確になっていく。この年の12月、終生、愛読することになる新約聖書を購入。21歳で洗礼を懇願するも「求道者会」でよく理解してからと諭され、通い始める。3月11日親友吉田不二雄の遺稿集『一粒の麦』を刊行。同月、駒込基督会牧師の富永徳磨より洗礼を受ける。5月夕方の礼拝出席を最後に顔を出さなくなる。通うことに意義を見出さなくなったからであろうか。人に広めていくというより自分自身に突き詰めていくタイプのような気がする。12月スペイン風邪から肺炎を併発し入院。
22歳の時、寮生活に戻ろうとしたが肺病と疑われ、寮を追われ、池袋の素人下宿に入るっておいおい、重吉が池袋にいたことがあったとは!師匠!支部長、ここもっと詳しく教えてくださーーーい。
この年、万国音標文字(発音記号)を紹介し、発音重視の英語教授を実践していた岡倉由三郎(兄はあの岡倉天心)の教えを受ける。この人、立教大でも教授をしていた。
23歳ー間に入った人から頼まれ、島田とみの勉強を一週間みてあげるのだが、重吉、一目ぼれ。とみはちゃんと女子聖学院三年に編入するのだが、故恋に落ちもだえ苦しむ重吉。全集には彼女に出した手紙もちゃんと掲載されているというからこれは何とかして読みたいものである。とみさん、よくぞちゃんと残しておいてくれました。個人情報全開であるけども(笑)
3月兵庫御影師範学校教諭兼訓導に任ぜられる。9月とみに告白。24歳、婚約式。鉄は熱いうちに打てなのだ。一気に攻める重吉!
5月とみー肋膜炎。そらあかんと重吉、御影で療養させ、自分の手で教育するととみを中途退学させる。ってとみちゃん、納得してるんよね(笑)
7月遂に結婚式。その後、それまで書いていた短歌に代わり、本格的に詩を書き始める。詩と信仰、そして油絵を描く日常。キーツの詩を読み始める。
25歳、長女桃子誕生。
26歳、キーツの研究本格化。研究家の佐藤清に手紙書く。手紙ならお任せの重吉君ですからね。
12月長男陽二誕生。27歳千葉県立東葛飾中学校に転任。柏に住む。
http://yagijuaiko.com/?page_id=67に詳しく掲載あります。
加藤武雄に出版を依頼した第一詩集『秋の瞳』刊行。「詩の家」の佐藤惣之助に誘われ同人となる。そして草野心平にも誘われ心平主宰の「銅鐸」にも詩を発表。八木重吉の時代がきてるぞ、きてるぞ。
28歳、肺結核(第二期)と診断下る。最後の授業で「キリストの再来を信ず」と言って教壇を去る。
絶対の安静状態の中、第二詩集『貧しき信徒』を自選し、加藤武雄に再度出版依頼。
29歳(1927年)6月東葛飾中学を依願退職。10月26日とみの名を呼びながら召天。その後、未亡人とみは池袋に住んでるねん。このとみの話をもっと聞きたかったのだけども時間オーバーだったのだ。このとみさん、その後、桃子(1937年)、陽二(1940年)を相次いで結核で先に失う。
とみは1947年吉野秀雄と再婚。

重吉の詩というよりまずこの序文に強烈な衝撃をうけた。
第一詩集「秋の瞳」の序文
私は、友が無くては、耐えられぬのです。
しかし、私にはありません。この貧しい詩を、
これを読んでくださる方の胸に捧げます。そ
して、私を、あなたの友にしてください。

日本の近代詩上に残る八木重吉にこんなこと言われたらくらくらしてきますわ。詩を読んでみてくださいとささやかれているような。孤独な時、寂しい時は僕がいるよと言ってくれてるような。

『うつくしいもの』の3,4行目
どこにか 「ほんとうに 美しいもの」は ないのか
それが 敵であっても かまわない

その対象が自分にとって、敵で憎い相手でも美を伴っていればいいということなのだろうか。美しいものは敵であってもちゃんと認めるよと。
嫌いだからと全部を否定することはないよと言われているような気もする。

「無造作な 雲」
無造作な くも
あのくものあたりへ 死にたい

重吉の詩って漢字とひらがなの使い分けで意味が全然違ってそうだし、なぜここは一字あけなのかとこれまた意味が違ってきそうで、大変なんだけども、この詩だともう引っかかって仕方ないのが くものあたりへだわ。
なんでくものあたりで じゃないねん!教えてよ重吉はん。こんな短い詩でも無限にというか色々、考えさせられてしまうところがこの詩の恐ろしいとこである。雲に対して無造作と言ってしまう重吉もすごい。そりゃま、人工的にきちんと作ったものじゃないけどさ、そこが雲の形は面白いんじゃん。そっか、そういうこと?なんてたった2行なのに思考があちこちに飛んでしまう。雲の上で死にたいんか、重吉はんは。わたしゃ、高いとこはお断りやで(笑)
これだけ考えさせられる重吉の詩。どれもしっかりと推敲されているとのこと。削って削って、絞って絞って、考えて考え抜いた末でのあの2行なのか。

ポエカフェのいいところはおのおのが感じたこと、思ったこと、考えたことを自由に言える雰囲気で、正解を求めて決着をつけるわけではないというところにある。詩は一篇ある。青と感じる人、黄色と感じる人、そんなの人それぞれ、自由なのだ。たとえ正解があったとしてもそれに怯むことなく自由に意見をいえるこの場はとても貴重である。
今回、初参加の人が多かったにも拘わらず、いつも以上に議論が活発であった。むしろ初参加の人の方がびしばしと鋭い意見を出していて、感心することばかりであったなまけものなのであった。

雲の詩をもう一つ
「雲」
くものある日
くもは かなしい

くものない日
そらは さびしい

難解な言葉は一切ない。でもこれ、簡単にわかるかと言われたらNOだ。
短い故の難しさ、短い故の面白さ。
くもの存在をどう捉えるか。くも自身にとってくものある日は悲しいってどういうことなのか。くもがあるとそらは嬉しいのか。相手がいるから嬉しいのかね。くもを自分と置き換えてみると今度は意味深になりすぎだろうか。

議論が白熱してたので年譜も途中で終わり、朗読も免れるかなとしめしめと思ってたら後半、回ってきたよ(ちっ)間違ってたよ、私が(笑)
「草にすわる」
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる

なんでしょうね、2行目の一字あけ・・・解説は支部長にお願いしましょう。
なんか3行しかないけど壮大なんだよね。草にねっころべばわかるんだよ、嫌なことがあったり失敗したら、自然をみればいいんだよと言われてるような。くよくよしてるのがばからしくなるような。
でも今、そういう場所すらなくなってきてるのが問題のような気がする。

「心よ」
こころよ
では いっておいで

と始まり、戻っておいでと言ったかと思えば最後にまた行っておいでと突き放す(笑)
あったかい詩だなあとまず思った。待ってるからねと。どんなに変わったとしてもどこへ行っても僕は変わらずに待ってるよと。
逆にねっこに一番大事なものがあって、それの幅を広げるためにいろんなことをやんなさいよって言われてるような気もした。

重吉、時にはぎょっとするようなちょっと怖い詩もある
「病床無題」
人を殺すような詩はないか

これと対に考えたい詩がこれー「無題」
息吹き返させる詩はないか

重吉の詩はその短さ故の鋭さで充分、人を精神的にくたばらせてるような気がするぞ(笑)

1923年関東大震災の年に書かれた詩がある。震災の前なのか後なのか。
偽りの海を泳いでいるような気がしてならぬと。それでも最後には
これだけが
わたしの 路だもの

翌年(大正13年)に書かれた詩ではこれが気になる

すべての
くるしみのこんげんは
むじょうけんに むせいげんに
ひとをゆるすという
そのいちねんがきえうせたことだ

聖書にありそうな詩だ。重吉の詩を読めば読むほど、聖書を読まなきゃという気になってくるが、有言実行できるか自信ないので公約はしませんよ。憎しみで自分がいっぱいになってる時はこの詩を読んで気分を静めたい。