ポエカフェ100回目は「本と食卓」篇

最初の回は5名だったという。それがいまや初参加の方は必ずといっていいほど毎回、いるし、コンスタントに15名以上集める詩の会。こつこつとやってこられた人の力は本当に強い。2009年から始めて今日で100回目。
誰を記念すべき回にやるのかと思えばまるで詩人のオールスター。
テーマは「本と食卓」沢山、いろんな人がでてくるけぇ、覚悟のほどを!(笑)
23名が中村橋のくーたもさんに集結。全員が座れば、もはや脱出不可能の人口密度。しかしこの23名の中に肝心のあの夫妻にあの名古屋のお姉さんとかいないではないかっ・・・とかなり(ご本人たちの悔しさはこんなものではない)残念に思いながらもお世話になっている方たちのお顔もずらり。1回目もでているKさん、御殿場のあの夫妻、名古屋のTさん、画家のKさん、ずらずらずら〜。この中に詩を書いていますという人が結構な割合を占めるのもポエカフェらしい。23名もいるから自己紹介は一人、30秒!と指令が下り、ポエカフェと私というお題で始まる。
さ、テキストにいくでよーー。

トップバッターはリルケはん。ドイツの詩人さん、立て続けにやりましたねぇ。
真ん中あたりの11行目がいい。「読書する人」抄

下の書物のなかにとどまっているものを 自分の高さに拾い上げながら。
そして彼の眼は 外部のものを受け取るというよりは与えながら

この自分の高さというのがいい。同じ文を読んでも私の理解度、解釈と他の人の解釈は勿論、違う。自分の理解の低さに苛立ちながらもそれでもこの本は面白かったんだと言いたい自分がいて。そんな私のいら立ち、歯痒さをこの一行がすーっと落ち着かせてくれる。
でも次の行で受け取るのではなく、与えながらとあって、え?与えるの?と一瞬、目が停止する。もっとじっくり読まなければ、という気にさせられる。

お次は、これは絶対、あるやろなと予想していた与謝野晶子
「日曜の朝飯」
この少子化時代でも朝は戦争や!というご家庭も多いだろう、それがなんと与謝野家は当時8人家族(でも子供は11人まで増えて与謝野家は13人家族となっていく。や、野球が、サッカーチームも作れます・・・)。
家族と一緒に朝ご飯を食べてますか?と語りかけたくなるような詩である。この詩は与謝野晶子の旦那の鉄幹がちょっと落ち目の頃で、晶子が馬車馬の如く働いていた。この詩でてくるメニューがこれまた目をひくから、皆さん、お腹が空いてないときに読んでね。
フランスパンが出てくると思えば、蜆汁。和洋折衷なんですね、与謝野家は。そして与謝野家といえば突っ込まずにはいられない子供たちの名前!
この詩にも出てくるアウギユスト君。これ、なんとあのフランスの彫刻家ロダンさんが命名したんやけどね、クラスにこんな名前がいたらね・・・ということで後にあきらと改名したそうな・・・


三度が三度、
父さんや母さんは働く為に食べる、
子供のあなた達は、よく遊び、
よく大きくなり、よく歌ひ、
よく学校へ行き、本を読み、
よく物を知るやうに食べる。

今のこどもたちはこういう風に願っていてもらえてるだろうか。
ひたすら勉強するためだけに朝ご飯を食べろと言われてないだろうか。

哀しいかな、私は大きくなったのは横幅だけ・・・歌うのも好きじゃなかった・・・でも本は好きだった、物をもっともっと知りたいとは思っていたが、食べるばっかで運動もたいしてせず・・・ダメじゃん!

3番目の詩があたった私。勿論、小さい紙を狙って引いたのは言うまでもない。生田春月「誤植」

我が生涯はあはれなる夢、
我れは世界の頁の上の一つの誤植なりき。

この世界自らもまた
あやまれる、無益なる書物なるを。

人の人生なんて誤植なんだよと。この詩を読んでいるとかえって気持ちが軽くなるような気がした。この世界そのものすら無益な書物なんだからと。
なに、小さいことでくよくよしてんのとね。

知らない詩を、知らない詩人を知ることのできる、そしてかけがえのない面白い人たちと出会えるこのポエカフェはますく堂にとって一番大きな柱となっている。

お次は西條八十。「書物」一連目と最後の連がいい。
月の夜は
大きな書物、
ひらきゆく
ましろき頁。

月の夜は
やさしき詩集、
夢のみをかたれる詩集。

まさにポエカフェのための詩。どんなお月さんをみながらこの詩ができたのだろうか。忙しくてお月さんすら見られない・・・いや月をみることすら忘れている。そんな日常を捨ててたまには月を眺めながら詩を作りたい。

西條八十は同じ題名でもう一つ。これもいい。特に最後の3行がいいぞ。
「書物」
書物はいつぺん読んだらば あなたの心の奥ふかく じつと
そのまま残つてゐる
書物がくれる財産は、一生消えない、なくならない。

後から出てくる竹中郁の「書物」をどうしてもこの3行を読むと思い出してしまう。書物を空襲で燃やされてしまった竹中の無念さ。夢で指でめくることもあり、そらんじている文句もあるのにと竹中郁の無念さを。
でもだからこそ、竹中郁のようにこの詩のように、一冊の本を大事に読みたいし、好きな本は何度でも読みたい。

次はちょっと気分をかえて孫がかわいくて仕方ない金子光晴「若葉よ来年は海へゆこう」

絵本をひらくと、海がひらける。

もう冒頭からしていいではないか。あとはひたすら孫の若葉がかわいくてしゃあないねんという詩です(おい)最後の一行でじいちゃんもいっしょに貝になろう、言うてます、ええ、じいちゃんやね。

このポエカフェの数日前にぴっぽさんの新潮講座で取り上げられたのが金子光晴。今回、ポエカフェ初参加の方の中にはこの講座には行ったことがあるという方もいらっしゃり、このポエカフェがじわりじわり広がっている。
次は小熊秀雄の「焼かれた魚」これ、ますく堂にもあります。青空文庫で読めるけど・・・できれば・・・ぶつぶつ・・・
小熊秀雄をとばして次の朗読に選ばれたのが菅原克己「燈火」
これを読んだのが菅原克己を大好きだというN氏。

夫が本を買いたがる。

一連目の真ん中あたりのこの一文にどきっとした旦那さんは活字中毒でしょう。

お次がさきほどちらっと紹介した竹中郁「書物」
ああ 書物のこと思うと
咽喉をしめられるやうだ

しかし 書物は
不運の書物は帰ってこない

ああ 書物
夢に指でめくることもある
そらんじている文句もある

自分の妻より古馴染みの書物が煙となって失せるのを見届けた竹中郁
布団はめぐんでもらったけど、本は帰ってこない・・・自分の右腕を失ったかのような、いやそれ以上かもしれない。
本の詩でこんなに切ない、やりきれない詩があるだろうか。

お次は大木実「前へ」ちょっとやりきれなさが積もった時にこれである。詩の並びがいい。
大木実が少年の日に読んだ『家なき子』の結びについて書いてるのだが、いいのだ。


ーー前へ。
僕はこの言葉が好きだ。

物語は終わっても、僕らの人生は終らない。

辛いこと、厭なこと、哀しいことに、出会うたび、
僕は弱い自分を励ます。
ーー前へ。

詩に励まされる。力をもらえる。頑張らな、と思う。
そんな詩に巡りあえたこのポエカフェに感謝する。何もお返しできてないけれど、この場にいられること、そのことがありがたい、嬉しい。

この詩は、嫌なことがあるとすぐに暗く深く潜ってしまう私に、もうちょっと前に進んでみようやと勇気づけてくれる。ちょっと『家なき子』が読みたくなってきたぞ。

これでテキストは2枚が終了。ここから3枚目。
大木実の「ぼくの本」の次に控えし詩人が高田敏子。朗読されたのは「母と子」

大木実の「ぼくの本」これも朗読はされなかったがいい。最初に本がふえてきてうれしいとある。もう無条件に読んでる私までもが嬉しくなってくる。最後の2行もいい。
鉄道図鑑をひらくと
プーンといい匂い

こういう詩こそ教科書に載せなあかんやろ。

「母と子」

少女は
手に持つ絵本をひろげていて
やはり
なでられている そのことに
気づいてはいないらしい

私にも それとは気づかずに
受けている愛があって
生きていられるのだろう

素敵な日常。この親子にすれば当たり前の日常なんだろうけどこういう日常をどれだけの親子が送れているだろうか。こういう貴重な時間を持てているだろうか。
最後の一連がはっとさせられる。当たり前すぎて感謝することすら忘れてるんじゃないかと。

安西均「聖夜」
最後の一行が果てしなく悲しくなってくるのは私だけだろうか

どんな病気だか生涯知らせることもできまい。

石垣りん「木のイメージ」
3連目のこの2行がそうだ、木を切り倒してばかりじゃないかと気づかされる。

私は活字に流されながら溺れながら
そうだ木を植えて来なかった、と叫ぶ。

石垣りんはプライベートをみせない人で、決して自分の家に人を入れようとしなかった。

石垣りんとくればお次は茨木のり子「食卓に珈琲の匂い流れ」

与謝野晶子が綴った日曜の朝が賑やかで穏やかな動的な朝とすれば
茨木は食卓に珈琲の匂いが流れる静かな日曜日。
どちらも平和な時代であるからこそ実現する朝なのだ。

お次は茨木のり子と同じ1926年生まれの金井直「ヘミングウェイ全集第一巻」

略、今は一行一行が妙にのどにつまってくるのだ。

この一文が私は妙につっかってくる。のどにつまりはしないのだが。どういう感じなのだろうか。

新川和江「栞」とレイモンド・カーヴァー「雨」の間にあるのが川崎洋「これから」

略 これから
どうにかできる 書きこみのない
まっさらの頁があるのだ
と思おう

新しくはじめて
なにわるいことがある

と思おうとわざわざ強調し、最後も開き直っているかのような。これからなんだよと改めて言い聞かせているかのような決意表明
お次は2015年逝去された長田弘「世界は一冊の本」この詩は書かれた文字だけではなく、日の光、ガゼル、ヌーですら本だという。これには賛否両論あるかもしれない。え?それも本なのと言いたくなるものもあるけれど、この詩には気になる言葉がいくつかちりばめられていて、抜き出してみる。

世界というのは開かれた本で、
その本は見えない言葉で書かれている。

人生という本を、人は胸に抱いている。
一個の人間は一冊の本なのだ。

どんなことでもない。生きるとは、
考えることができるということだ。

本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。

お次は世界よりももっと広大なスケールにて展開される池井昌樹「銀河のむこうで」

ぼくの手は
ほんとうは
それだけのためにあるのではない
なにかのためにあるのだけれど
なにかやさしいなにかのために
なにかしたくてあるのだけれど

この人は本屋の人だろうか。返本したり、レジを打ったりと指紋がすりきれるほど、手は大活躍する。でもそれだけじゃないよと願うのがいい。
また頁をめくって朗読はされていないのだが、松浦寿輝leaf
本のページが植物でできているのは不思議だ
ことばの基底材は植物の繊維なのだ

きみの好きな詩人の詩を声に出して読む

きみも無言で犬にこたえる
こんなはかない慰藉なしには生きられない
にんげんとはそんないびつな動物なのだ、と

石垣りんの詩とともに本が木から、植物からできていることを実感させられる詩。
許徳民(シュイデエーミン)「旅の途中で」

あなたが貸してくれた本を手にもって
頁を開いたが見たのはあなたの目だ

世界は寂しいところじゃない
夜の闇が一切を沈めても

駅について私たちは楽しく別れた
たぶん 永遠に会えないかもしれない
しかしお互いに忘れられない
私たちの間に距離がないことを

名前も知らないふたりが旅の途中で笑顔をかわしあう。もう会えないかもしれないまさに一期一会の出会いがここにはある。
新川和江「朝の詩」よりひとつ。産経新聞の投稿詩で新川和江が選者。忘れていたひとがいたらと気遣いをみせる母親。それをまた娘も伝統のようにやっているのがいい。
「二膳の割りばし」(森三知代 愛媛)

遠足のお弁当に
いつも入っていた 二膳の割りばし

子供のお弁当に
やっぱり入れている 二膳の割りばし

ボーナストラックにポエカフェ同人の中本速氏の「大きくなりたい」

東京タワーにハンペン刺して
でっかいおでんが食べたいな

このスケールのでっかいおでんがいい。でも最後には現実に戻る、この感じもいいな。

石川啄木「悲しき玩具」
本を買ひたし、買ひたしと、
あてつけのつもりではないけれど、
妻に言ひてみる。

啄木・・・そういうのはあてつけやねん。金田一さんに借金返してから言いなはれ。突っ込まずにはおれない啄木。金田一京助石川啄木」(新訂版、角川文庫)
を読むと、なんていい人なんだ、金田一は!と思って、ちょっとだけ啄木のことも見直していたとこなんだが、この短歌を読むとまた突っ込まずにはおれん。

寺山修司がお次に登場。
軒燕 古書売りし日は海へ行く

いいねぇ。身も軽くなり、お金も入り、海へ行きたい気分と言うのが。というわけで本の買取、お待ちしてます・・・
朗読された以外にも
ランボーを五行とびこす恋猫や

書物の起源冬のてのひら閉じひらき などもいいなあ。

天の川銀河発電所』(佐藤文香編)からもいくつか朗読された。
相沢文子 林檎剥くときは優しい顔をする
田中亜美 抽象となるまでパセリ刻みけり

パセリってもう既に抽象みたいなもんやん、それを更にドロドロに?
大とりはまたまた登場のRB氏の「一箱古本市の詩」

テキストがおわって、くーたもさんのおいしい料理!カレーをお代わりしちゃいました。デザートのタルトも絶品。バイトさえなきゃあなあと大してない後ろ髪をひかれながら会場を後にする。
100回、おめでとうございます。ポエカフェに厚く御礼を申し上げて、おしまい。