第101回ポエカフェ新川和江篇

新川和江ー1929年4月22日茨城の結城郡絹川村小森にて誕生。父、斉藤茂平、母てるの次女。異母兄弟3人いて、戸籍上は四女。
http://www.30ans.com/specialtalk/backnumber/okaasan201008.htmlちょっと面白い対談記事をみつけたのではっつけておきまする。

1936年7歳。村立絹川尋常小学校に入学。1939年10歳の時、父、脳出血で死去。小学生全集の童謡の巻(北原白秋西條八十三木露風ら)に熱中。
白秋、西條八十といえば日本童謡界のツートップやねん。白秋先生は俺様気質にて、好敵手西條八十の存在が面白くなかったんだなあ。
1942年13歳、県立結城高等女学校入学。
1943年14歳、大陸向けの毎日新聞に「朝露踏んで」を投稿。二作目からは特別の欄に。大陸向け?なんだ?しかしこの作品を採用した人、特別欄に二作目から採用した人はいち早く彼女の才能を見抜いていたんでしょうねぇ。
1944年15歳、西條八十が近くの下館町へ疎開してくる。あの憧れの!とたまらず会いにゆき、詩をみてもらうことになる。週に一度、八十の書斎に通うって、凄いなあ。
1946年17歳、卒業記念に「未完成交響曲」の台本を書き、シューベルトを演じる。この年、親交のあった新川家の長男、淳と結婚。ってはやっ!
1948年19歳、渋谷区のアパートに移る。少女雑誌、学習雑誌に物語や子供の為の詩を書く。同人誌「プレイアド」に参加。
1951年22歳、早稲田系の文学グループ「十五日会」に入り、瀬戸内晴美(のちの寂聴)、河野多恵子らと知り合う。第一詩集「睡り椅子」刊行。
1953年24歳、同じ町内に新築移転。秋谷豊の誘いで「地球」グループに参加。嶋岡晨、杉本春生らと交流。
1955年長男博誕生。
1960年31歳、学研「中一コース」に連載の詩で第九回小学館文学賞を受賞。
1964年欧州一周旅行。新川家ってもしかしなくてもお金持ち?
1972年世田谷区瀬田に新築移転。また新築ですってよ。やはりこれは啄木とかの貧乏パターンではなく、白秋とかの金持ち詩人か。
1973年台北での世界詩人会議に出席。
1974年45歳、母てる死去。
1980年「野火」訪中団に参加。
1983年54歳、吉原幸子と季刊詩誌「ラ・メール」創刊。これ、テストにでます。日本現代詩人会会長に就任。動の吉原さん、静の新川さんといったところでしょうか。この詩誌の立ち上げについては反対意見もあったとのことですが思潮社の当時の社長、小田久郎のすすめもあって創刊となったようだ。1年で500万近くもの赤字があったようだが後進を育てようとして作られたこの詩誌の存在は大きかったと思う。
1986年第二回アジア詩人会議に参加。
1993年64歳、「ラ・メール」を初期の計画通り、10周年記念号をもって終わることを決意。おしまいの4冊の表紙を草間彌生が担当。
1996年67歳、夫の淳、死去。
2000年勲四等瑞宝章授賞。「新川和江全詩集」刊行。
2004年75歳、ゆうき図書館にて小中高校生の詩を対象とした新川和江賞を設立。

鳥と花の詩が多い、新川和江の詩をいまからちょこっとピックアップ。
「ひばりの様に」
ひばりの様にただうたふ
それでよいではないですか

胸はりさけて死んだとて
それでいいではないですか

この詩、最初と最後の2行ずつだけでもいいよねと言いたくなる。穏やかに始まったこの詩は最後の行で強烈な火を読むものに浴びせる。

詩を書いてただ詩をうたふ それで貧乏のまま死んだっていいじゃないか。

「断章」
略 おまへはどうして生めないのかと
子好きな夫はなげきます

わたしはだまって
ごはんをたきます

お米のいのりをききながら

夫のあの一言で妻がどんだけ傷つくかをどうか思いやってほしい。

「扉」これ、ちょっと長くて引用はできないけど、面白い詩。
〆切に追われて無口になるわたし。そんな母親をじっとみている息子は
ペンや廻転椅子をママだという。ある日、わたしが朝から一日、息子の相手をする。するとふいに不在の書斎の前に走り寄り、ママ!と叫ぶ。
仕事と息子、どちらも大切だが、一度に両方はできない。たまには詩を一心不乱に書きたいときもあるだろう。
詩を書くとは?家事とは?そんなことまで考えさせられる詩。

「可能性」
新川和江の詩には前半と後半で対照的なものがいくつかある。
この詩でも前半はいとしい子のためにいろいろしてあげねばならんからいそがしいとつづる。後半になると


ひとりで甘えちゃいけません
母さんのこどもは
雲の上にいるおまえ 海の底にもいるおまえ

とがらっと言うことがかわっていて、インパクトも強い。
我が子なんてものはかけがえのないものだろうに、むしろそうやって自分が甘やかさないために言うてるのかもしれない。
こどもは世界のものであると。どのこどもも唯一無二の存在で大事だよと。

「ふゆのさくら」
おとことおんなが
われなべとじぶたしきにむすばれて

ひとつやねのしたにすめないからといって

たえまなくさくらのはなびらがちりかかる

ひらがなだけの詩で非常に読みづらい。意図的にしているんだろうね。じゃ、どうして読みにくくしているか。これは不倫の詩ではないかという意見もあった。
ひとつやねのした云々でてくるからだ。
ふゆのさくらという現実にはありえないものなんだけど題名だけみて、まずきれいだなと思った。最後の一行もいい。
でも全部平仮名で、この詩はそんなに簡単じゃないよと言ってるような気もする。
まだ冬には咲かない桜。準備段階。つまりは耐え忍ぶ意味があるのではというご意見もあった。
読みづらい詩なんだが、その中にきれいな表現を入れて、おっと思わせる。あなたが一個の檸檬なら私は鏡の中の檸檬と。体は離れていても運命共同体

「わたしを束ねないで」
わたしを束ねないで
あらせいとうのように
白い葱のように
略 わたしは稲穂

わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風

はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

ちょっと茨木のり子石垣りんの詩を彷彿させるのがこの詩。でも茨木や石垣が剣のような鋭さでもって突き刺すとしたら、新川和江は弓矢のような穏やかさがある。束ねないでといい、葱がでてきて、止めないでと言って、高原からきた絵葉書とくる。上品というか綺麗というかその分、物足りなさがある。もっとぐさっと刺してもいいのに、そうはしない。
座りきりという表現にポエカフェ同人たちも唸らされる。
「千度呼べば」
千度呼べば
思いが通じるという

 あのひとを振りかえらせてくださるのは
千一度目かも知れませんもの

この詩を読んでドリカムのあの歌(「何度でも」)が浮かんできた人は多いでしょうねぇ。オトメな詩なんだけどドリカムのような熱さも激しさもなく、静かに諦めませんよと芯の強さをにじませているような感じだ。
サフラン
さびしい人から
さびしさを引いた数だけ
サフランは ひらきます

たくさんのさびしさよ
サフランとなって 咲きなさい
サフランと咲いて 癒えなさい

サフランというのは葉っぱがなくて花だけひょこっと咲くらしい。植物博士が隣にいるからなんでも聞いてしまう。
こういう詩は暗唱したくなる。今日のテキストの中で一つと言われたらこれだな。次点が「わたしを束ねないで」

今日のゆうきのチーズケーキ、これもまたベストに間違いなく入る、おやつだったなあ。ああ、絶品。ごちそうさまでした。ポエカフェスイーツが一堂に並んだ催事があったら、間違いなく行くね、あたしゃ。