ポエカフェ「ダ、ダ、ダ、高橋新吉篇」

d.hatena.ne.jp/mask94421139/20120628/1340876580 ポエカフェ、前回の高橋新吉の時のがこれ。高橋新吉を検索してこの日記が上位に出ること自体、新吉のデータが少ないことを物語っている。ぴっぽさんが詩人たちの年譜を作るのにどんだけ、毎回、大変なのかがよくわかる。

105回目は高橋新吉
1901年(明治34年)1月28日愛媛に生まれた高橋新吉。父、春次郎。母マサは11歳の時に死亡。最初の男児がなくなり、女が5人続いたあとの次男新吉。ということで父は狂喜乱舞なのであった。

1918年(大正7年)17歳、無断で上京。卒業間際に父が八幡浜商業学校へ退学届出す。ううむ、あと少しやってんのになあ。ということで新吉さん、学歴は高校中退なんですね。5月、神戸元町呉服店に勤める。
12月チプスにかかり、養育院に収容。
1920年19歳、1892年に黒岩涙香が創刊した東京の日刊新聞「万朝報」の懸賞短編小説に「焔をかゝぐ」入選。
万朝報紙上のダダイズムの記事を読み、ダダに感染。何かの病気みたいな・・・
1921年20歳、金山出石寺の小僧となる。坂本石創と栗橋の舟渡に行く。利根川べりのふしぎな一軒家で自炊生活しとったらしい。この坂本はんが辻潤らを紹介したらしい。
辻潤にダダを教えたのは新吉はんなんだよね。有名なんは辻はんやけども・・・ガリ版の手製詩集「まくはうり詩集」DAI60部作成するも全く売れず・・・蕎麦屋の出前、しるこ屋の手伝い、食堂で皿洗いなど。そうか、まかないがほしいから食べ物屋ばっかやったんかな。
1922年21歳、「ダガバジ断言」を「週刊に本」に。「ダダの詩三つ」を「改造」に発表。
この年、弟竜雄死す。義母入籍。新吉、発狂が報じられる。姉も精神を病んでいたらしい。そして母マサが死んでからというものの、2,3回、母がかわるもなじめなかった新吉。
1923年22歳、辻潤編集、佐藤春夫の序文付きで詩集「ダダイスト新吉の詩」中央美術社より刊行。辻潤が勝手に編集したということでブチぎれた新吉はんは留置場でこれを破り捨てたそうな。春生が10頁、辻が5頁も書いてたらしい・・・誰の本や!と頭にきたんかな。
1924年23歳、小説「ダダ」刊行。この年、韓国に行ってるねん、新吉。韓国文学史上唯一のダダイスト、高漢容に会ってるのだ。
神戸雄一の「ダムダム」に参加。
1925年24歳、短編小説を3つ、週刊朝日に発表。
草野心平が隣室に下宿ってこれ、すごいがな。高橋新吉草野心平やで!
1926年「祇園祭り」刊行。
1927年逸見猶吉と知る。中原中也が来訪。
1928年「高橋新吉詩集」刊行。岐阜県井深村で座禅を習う。接心中に発病し、郷里で数年間静養。
1929年座敷牢の生活。躁狂性激しく絶えず咆哮。糞尿を投げる。9月23日、父、首つり自殺。
1932年上京し、本郷に下宿。石川道雄を知る。
1935年逸見猶吉により「歴程」創刊。新吉も作品参加。
1936年「新吉詩抄」刊行。1939年新吉、また韓国で遊ぶとあるぞ。翌年は樺太に遊ぶとある。全国の古社を巡る。
1941年京都にしばし滞在。1943年詩集「父母」刊行。永田町より沼袋に転ず。お、新吉はん、ポエカフェをやったことがある沼袋にいたのか。
1944年日本海事新聞社に入社。1945年空襲で住居焼失。江古田に越す。海事新聞社退社。
1950年「高橋新吉の詩集」刊行。1951年一柳喜久子と結婚。喜久子さんはダダイスト新吉の詩を読んで会いにいく。気性の激しい人だそうな。
1955年長女、新子誕生。「インドむかしばなし」刊行。
1960年次女、温子(はるこ)誕生。
1982年前立腺がん、入退院繰り返す。妻告知せず愛媛新聞文化賞受賞。1987年86歳、6月5日永眠。遺骨は宇和島市の泰平寺に埋葬。

「断言はダダイスト」抄
DADAは一切を断言し否定する

一切のものに一切を見るのである。
断言は一切である。

ダダとは既定の秩序や常識に対する否定、破壊、攻撃で1910年代半ばに起こった芸術運動、芸術思想とある。
一切のものに一切をみる・・・すべてをすべてのままにみるってことだろうか。

「でなければ」
2行目 私も好きなのですの次がでなければとなっていて、次にあなたも好きなのでと意味不明の接続になる。

「父」
父は私を愛の目でみた

父は自殺した
父は泣きながら死んで行つた

父は私を愛していた世界中の誰よりも

新吉の素直な思いがそのままこの詩にある。禅問答みたいなようわからん詩が多い中で、ありのままの気持ちをさらけだしたこういう詩がくると
ぐっとくる。

禅問答のような詩でなんかようわからんなあと思いつつもぐさっとくる1行がひそんでいる、新吉の詩には。
「無意味」
言葉は要らざるものの第一である

生きている事も又無意味である

一切の事実は無意味である

無意味であることをえんえん説明したくてこれだけ長くなったのだろうか。この詩がもっと短いものだったら、抜粋した行の言葉がもっと響いていたかもしれない

「時間」
私は思ふ、時間の経過を、

私の思ひの中も外も時間は経過しないのだ。

デカルトの「我思う、故に我在り」を最後の行を読んで何故か、頭に思い浮かんだ。

「墓碑銘」

私の墓碑銘は、「太陽と格闘した男」として貰ひたい、

このいきなりあらわれたポジティブさはなんなんだと思いつつ、新吉と太陽があまりにもギャップがあって、石原裕次郎しか浮かんでこないこの哀しい頭。
ここにでてくる太陽はどんな意味を持つのだろう。この詩で一番面白いのは多分、それを考えることだろうな。

「大切」
君は縦に生きるつもりか。

僕は横に生きようと思ふ。

縦が長く生きようということか。横にとは太く短くなのか。
これ、何を大切にというのかというと、最後の行で地球を大切にせねばとある。生物が生きていることで地球を汚している、そういうことだろうか。

「留守」
ここには誰も居らぬと言へ
五億年たつたら帰つて来る

仏陀の次に現れる弥勒菩薩が5億年後なんだそうな。しつこいセールスマンに使いたいな、これ。

「死」
私は死ぬことは絶対に無い
一度死んだからである

自殺はしないと1行目で固い決意。2度も3度も死ぬのは頭が悪いと言い放つ。

「宇宙の貌」
言葉は無数にある

詩は言葉ではない
言葉を媒介として真実を究めんとするものである

詩よりも真実を究めるほうが大事なことなんだな、きっと