ポエカフェ 大手拓次編

私がしらん名前でも気軽に学べるポエカフェ。勿論、予習しなくても大丈夫(たまにはしろ)。今回、初参加が6人。そして大学生の参加率がたかっ。しかも皆、卒論テーマが朔太郎ですとか、拓次を知っている人ばかりで、すごっ!あの常連青年も荒川洋治が拓次について述べているくだりをばっちり披露するとこからして、もう尊敬の一言しか出ないわ・・・
この人、文化の日生まれなんやね。今を遡ること、面倒なんで1887年(明治20年)の群馬は碓氷郡出身。今日のゲストはなんと、拓次の近くに在住の塩山氏。群馬に新幹線で帰宅のため、前半で退出されたのがなんとも残念でしたな。もっと、拓次ネタをお聞きしたかった。
拓次は磯部温泉「鳳来館」営む両親の次男で5人兄妹。祖父の万平がやりてで温泉地の開拓者だったらしい。
塩山氏は拓次の甥っ子も知っているとのこと。岡本綺堂のエッセイに万平が出てくるとか、耳寄りな情報を要所要所で挟んでくれていた。
鳳来館は今は、衰退していて、ちょっと落ち目とのこと。町の寄り合いに使用されているとのことだ。
7歳の時に父を、9歳で母を失い、彼は厳格な祖父よりも優しいおばあちゃんっ子となる。
近代詩といえば、貧乏が毎回、キーワードとなるが、彼は裕福な家で、彼のキーワードはひ弱で病弱。16歳の時、中耳炎。会場が何故か、盛り上がる。自己紹介の時などに、中耳炎でしたと拓次との共通点をあげていた方が一人ではなかった。
でも彼は頭がよく、タカタカだっけ?福田、中曽根元総理の出身校を出ている。群馬県立高崎工業高等学校の愛称『高工』(たかこう)と区別するため、『高高』(たかたか)の愛称で親しまれている高崎中学(現高崎高校)。塩山氏のタカタカ発言の意味がわかってなかった私(笑)
18歳で、兵役志願するも虫歯ですよ、虫歯!甲種合格を阻む虫歯。虫歯に深く感謝しただろう、兵隊になりたくなかった拓次。虫歯1本でも不合格なんやろか。
万平という名前には微塵も動揺しなかった私だが、拓次の兄の名前には何故か、動揺。孫平ときたか・・どうせなら波平にしてほしかった(おい)祖父がつけたんじゃないかとすぐさま思ってしまうのは私だけか。
この孫平君、やんちゃというか、悪がきというか。株に手を出し、家督継げず、家出。家督相続命令が拓次に下るも、祖母のとりなしで、何とか逃れ、18歳で上京。
早稲田のおぼっちゃんですよ・・・筆名紅子(くれないし)で詩を投稿。詩や文学に熱中するあまり、落第したのか、留年。
22歳の時、ボードレールに烈しく傾倒。彼の「悪の華」を訳したいがためにフランス語を勉強する。好きこそものの上手なれである。
明治44年邪宗門」が出て、北原白秋が時代の人となっていた明治45年。白秋主宰の「ざんぼあ」(むずい熟語なんでひらがなで失礼つかまつる)に詩がのる。詩人たちの登竜門ともいえるこの雑誌に拓次旋風を巻き起こす。大手拓次って誰やねんとさぞ、噂になっていたことであろう。白秋と朔太郎、それぞれから、絶賛の書簡を頂く拓次。白秋には朔太郎、犀星に匹敵やと褒められ、朔太郎にもすげぇぞと言われ、さぞかし嬉しかったであろう。そんな凄い拓次なのに、生きている間に本が刊行されなかったのは、大衆にうけるものを書かなかったからか。
虫歯の話題はまだ終わっていなかった・・・知り合いのツテを使い、ライオン歯磨本舗小林商店広告部(長すぎるわ、これ!)に入社。これ、名刺にしたら面倒やろなあ。会社名だけで名刺の完成やわ。拓次は香水好き、香料好きらしかったが、香水の会社に入ればよかったのに。
だが、この会社で拓次は生涯の友に出会うのだ。その名は逸見享(これまた読み方が難しいねん)、版画家で詩人の逸見と「異香詩社」を結成。香り好きの拓次らしいわ。
わたしゃ、前のバイトで、レジの時に、香水ぷんぷんさせてる人は苦手でしたが・・・あんなきつい匂いでも拓次は平気なんやろかとどうでもええことをふと、考える。
30歳の時、祖母が死に、翌年祖父が死ぬ。なんか、拓次の先祖は相次いで死んでるな。拓次の兄妹はどうしてたんやろ。
1923年、白秋を通じて処女詩集刊行の予定を進めるも実現せず。3年後にも同様のことがあり、見送られている。白秋や朔太郎というビッグネームと親交があっただけに、不運の一言で片付けていいものだろうか。生きているうちに出したかったであろうに。
1924年歯医者、耳の治療などで通院って、また、虫歯ちゃうやろうな?中耳炎には慢性的に悩まされていたんやろうな。小さい頃、歯だけは大事にせんとって言われるけど、あれって、ほんまやなと分かるのは虫歯になって痛い思いをして、初めて悟るのだ。
昭和に入ってからは、あちこちが悪くなる。目や耳の病気が悪化し、終いには肺結核となり46歳死去。
大手拓次は童貞を守り通したなんていう伝説は白秋と朔太郎の仕業らしい・・・しかも100パーセント事実かというと、信憑性にも欠けるって・・・そんな、不確かな噂、あんたら大御所が流したらあかんやん!1960〜70年代は誰もがそう思っていたなんて塩山氏が言うくらいに流布していたというから、ああ、恐ろしや。拓次の後を追ってきた女がいるらしいが、一晩泊めて帰したらしい。生涯、独身だった拓次。「真実はいつも一つ!」ってコナン君はいうてるけど、どうなんやろな。ってそんなんどうでもええやん、ほっといてんかと草葉の陰から怒ってるかな、拓次。これまた塩山氏からの情報だが、薔薇忌というのがあるらしい。薔薇忌で検索すると、群馬詩人クラブがでてきた。薔薇のケーキとあるではないか。カッカさんの薔薇のソーダも出すべきだな。これ、あっというまに即、完売となった今日の一番人気のメニューだったのだ。これかな、おばちゃんの集まりって・・(笑)
20歳の時に書いた「雷」これ、短くてシンプルでええわ。
雷!
雷!
空に鳴る。
胸に鳴る。
森、
夏の森。
ぴっぽさんも言うてたけど、胸に鳴るってとこがええですね。でも竜巻がくるような最近の天気では安全なとこにおらんと、こんなこというとられへん(笑)
拓次は2400篇もの詩を書いた。それ、全部読んだぴっぽさんがすごい。そのうち「薔薇」という言葉がタイトルにでてくるものだけで80もあるらしい。ほんま、この資料みてもばらばらだらけや。でも直接、薔薇をうたったものはない。つまりは大手拓次はメタファーの詩人。読むものにゆだねる。薔薇を通して、うたう。何かを、いろんなものを読むものが自由に想像できるように。
26歳の時の「創造の草笛」
わたしの手をひきだしてくれるものは、あなたの心のながれよりほかにはない。とある。
自分の手を引き出すのは自分というのではないところが、ひっかかっている。何かに救いを求めていたのか。病弱で独身。女神のような存在を求めていたのかもしれない。常に優しかった祖母のような存在だろうか。
25歳の時の「陶器の鴉」最後の一行が強烈。
この日和のしづかさを食べろ。
静かなものを食べろと、相反するものを並べて、より強烈になっている。
しかも動くカラスじゃなくて陶器のカラスにむかってなんだよね。
大手拓次の詩は黙読向け、あるいは音読向けかという話題になる。どちらかというと黙読派かなあと思う。
「夜の時」という意味不明の詩がある。
しいていえば草野心平のあの蛙の詩に似ている。が拓次のほうが年代的には早いのだ、これ。音声詩としてのさきがけなのかもしれない。
最初の一行が ちろ ちろ ちろそろ 
最後の二行が され され されされされされされ
          びるびるびるびる びる

ちるちるみちるーでもなく、動詞の三段活用でもなく、なんじゃこれーーーというのが第一印象。リズムがいいというわけでもなく、言葉遊びを楽しんでいるふうでもない。
これに「昼の時」「朝の時」と続くが、余計わからん。わからんものはこれ以上、分析しないほうがいいので、ほっとくことに・・・(笑)10年後にこれ、再読したら、おお、すげぇって言うとるかもしれん(せやろか?)こういう詩ってひらめかないと書けない。ある日、突然、言葉が天からおりてくるんだろうか、きた、きたでーって。
こういうわけのわからん詩より、晩年の頃の文語調の詩がいいという意見もあり。2400篇もの詩をスタイルを変えることなく、綴ってきた拓次。どこか執拗で、パラノイア的で、それも一つの才能ではないかという意見もあり、これだからポエカフェは面白いのだ。誰かが何かを押し付けることもなく、自分じゃ決して浮かばない意見、考えがぞくぞく聞けるのだ。例えば、拓次の詩が嫌いでも意味不明でもこの場所は居心地がよい。白紙の状態からでもすんなりはいってゆける学びの場である。
拓次の朗読された詩の中で特に次の表現が気になった。
「日輪草」では きんきんと鈴をふりならす階段
「わらひのひらめき」では しめやかなうれひ
「薔薇のもののけ」(なんともすごい題やわ)では しゆうしゆうとならして
「すぎし日のばらの花」では すずるに とほく
「罪の恩恵」(これまた恐ろしいA=Bの図式) 罪なくして神の存在は空なものである。
どんくらい鳳来館がさびれているのか、ちょっとみてみたいということで、締めたいと思う。