ポエカフェ 帰ってきた竹内浩三篇

王子駅北口をでて、北本通りにでれば、りそな銀行がある。そこから、私は直感で、公園をめざして、適当に左折してたら、運よく、公園に到着。公園を左折して、すこし進めば、念願のくしゃまんべ。いやぁ、たまに迷わずに行けるんだよね(笑)
徒歩8分くらいのところにある古書くしゃまんべで開催。偏りのある古本たちがいい。なぜか、文具が充実している面白い古本屋で、鉛筆やらノートもあった。
ここ、いろんなイベントをやっているようで、ある日は英語を教えたり、ある日は消しゴムはんこをつくったりと、イベントだけでも目が離せないなあ。そして何より、店主さんの明るくてノリのいいこと。店主をみにいくだけでもいく価値ありです。詳しくはわらしちゃんが突撃されてますので、ぴっぽさんのサイトに皆さんも突撃するように。
限定6食しかないと聞いて、もう、これは待ったなしとばかりに「伊勢うどん!」と注文する。
画像が噂の伊勢うどんです。麺はかなり太い。汁はほとんどないんだけど、しっかり味がついていて、いやあ、こんな味のうどんは初めてだ。たまり醤油に昆布のだし汁などを加えた濃厚なたれがほんのり味噌の味もしつつ、しつこすぎずにいいのだ。三重県には行った事がないのだが、古本屋以外にいい目的ができたな。
これ、命名したのが永六輔というのがいいわ。おなかをすかせてきたかいがあったよ。古本屋で麺類を食べたのは初めてである。
31回目の本日は、2009年12月にとりあげた三重県宇治山田市(現在の伊勢市)で1921年に生まれた竹内浩三
今回は珍しく資産家のおぼっちゃんが主役なのです。伊勢でも指折りの呉服店を営む竹内家。こういう資産家が子沢山ならいいが、貧乏ひまなしの家に限って子沢山である。
四歳上の姉(松島こう)とたった二人姉弟である。母よしは短歌の才能があり、歌人であり、国文学者の佐佐木信綱に師事。信綱の記念館が鈴鹿市にある。
浩三は3歳時、肺炎になる。そのとき、よしが千葉の成田山へ願掛けをしたという。母が遠方へ出かけたのはこの一度きりだったとか。
さぞかし、病弱なやつかと思えば、このおぼっちゃん、茶目っ気あり、悪戯好きの少年だったらしい。でも小学生の時は算数ができるという以外、目立つとこはなし。
どもり癖のあった浩三だが、職員室の前でバケツもっとけーと立たされることしばしば。カツオのようですな。
12歳の時、母が死亡。辞世の歌がまたいい。「己か身は願もあらし行末の遠き若人とはにまもらせ」
15歳の8月、同級の阪本楠彦、中井利亮らと「まんがのよろずや」という回覧雑誌作成。この頃、幾何学の成績は抜群だったものの、教練の成績が悪いは、回覧雑誌は作るはで、父親の善兵衛が度々、呼び出しをくらっていた。この時期から、創作活動が盛んになる。
漫画というと読みもせずに軽蔑する人もいるけれど、浩三は大人になってもまんがを喜ぶようになりたいものだと考えていた。
16歳で「竹内浩三作品集」という文集を作る。
従兄の大岩保がなんと竹久夢二と交流があり、浩三はその話を聞いて、東京への憧れを抱く。
18歳の時に父が逝去。父に反対されていた日大専門部(現芸術学部)映画科へ翌年入学。映画監督を目指していたらしい。クラシックも好き、漫画も好きという幅の広さだな。
そんなことより驚いたのが(おい)、江古田に下宿していたというではないか!残ってないのかなあ・・・
更に驚いたのが、この浩三君、毎日、喫茶店でお茶を一杯は必ずのみ、映画も一本は観るという生活をしていたというではありませんか!!
三重でもレコード屋の子を好きになり、この喫茶店徘徊生活が役に立つと思いきや、自分の事を喋りすぎて、ふられたとのこと。アーメン。
勿論、自分で稼いでいたんですよねと思っていたら、違うのじゃ。勉学に励むようにと親父が残してくれたお金を湯水のごとく、古本と映画と、コーヒー代につぎ込む浩三なのであった。
そんなことは許すまじと注意する姉なのだが、この男、啄木並に借金というか無心の手紙が上手というか・・・ちっ、どいつもこいつも(笑)お金のことに関してはたっくん2世と呼んであげよう
d.hatena.ne.jp/beatle001/20060108/p1 - このブログが面白かったのではっつけておきます。
1942年(21歳)の6月に「伊勢文学」を中井利亮、野村一雄、土屋陽一と創刊し、11月までに5号出したのだから、ほぼ、月刊だよな。
時代は軍国主義へまっしぐらというわけで、日大を半年繰り上げて卒業した浩三は、10月に三重県久居(ひさい)町の中部第38部隊に入営。
昭和19年元旦から「筑波日記〓冬から春へ」を執筆開始。7月筑波日記〓を中断。
終戦の年、23歳の4月9日。陸軍兵長竹内浩三の戦死と葉書がくる。骨も戻ってきていないという。教練の成績とかよくなかったのに兵長になったんだね。
さて、次は気になった作品をつらつらととりあげていきますか。
「雨」これ、表現が面白い。
ざんござんごと
雨がふる
最後の方では
がちんがちんとあるいた

「東京」これはそうだよねぇと納得してしまうようないい詩だ(笑)
東京はタイクツな町だと始まる。え?退屈?うるさいでしょうにと思いながら先に進むと
男も女に笑わずにとがった神経で
とぐさり。更には
東京は冷たい町
だととどめをさす
最後には
東京では漫画やオペラが要るはずだとうなずける
ときたもんだ。
東京のことが嫌いだったのかというと、浩三は戦争にいくまでは楽しい日常を送っていたんだろう。

姉は遊びにばかり金を使う浩三に苦言を呈すも、奴はこんな詩を書いているんだよなぁ・・・
「金がきたら」もうこのタイトルだけで頭をぱちんと殴ってもいいと思う、お姉さんは。
この詩の中で、金がきたら、レコードやら、本箱、ゲタ、ヤカン、レコード入れやら花ビンやら
(借金をはらわねばならないという一文もあるのだが、最後のほうで、しかも借金を払うとまたお金がなくなるからまた、借金をしようなんてかいてるんだよ)
を買おうとほざいているのだが、
金は天下のまわりもんじゃと、ラストの二行目でお釈迦様のようなことを言うてるのがねぇ。お前がいうなといいたいわ!
浩三はどうやら憎めないキャラだったようで、皆さん、憎めないキャラでも金はかしちゃ、あきまへん。
お次は「五月のように」
浩三の詩は難解な言葉を使うでもなく、素直で、だからこそ、いろいろと考えさせられる
この詩で歓喜して生きよという(フランス語でヴィヴェ・ジョアイユウなんだとさ)理屈を云う前に歓喜せよと。
浩三がこの詩で歌うように
みんなが
みんなで
愉快に生きよう
となりたいものである
真を知りたければ信ぜよ
と。いいこというなあ。
「鈍走記」もなかなか鋭くて見逃せない文章だ
戦争は悪の豪華版である
と。戦争してもいい理由なんてどこにもないと思う。
次の一文もパンチがきいていて、爽快だ。
批評家に。批評するヒマがあったら創作してくれ。
「ぼくもいくさに征くのだけれど」
声高に反戦を唱えるでもなく、かといって、戦争大好きの愛国主義ですと主張してるでもない。
でもタイトルでもけれどと逆接的なのだ。
子供とあそんだり
うっかりしていて
戦死するかしら
こんな暢気な文書いた人っていないんじゃないかと思うくらいだ。ほんとに兵長だったんだよね?
稲泉連「ぼくもいくさに征くのだけれど」も読んでみなければ。
そうかと思うと「骨のうたう」なんていう詩もある。戦争についての詩が時代柄、どうしても多いのは仕方ないだろう。
大君のため
死んでしまうや
その心や
これ、心ときてるのがなんとも巧い。命だけでなく、心までもか・・・
この詩、中井利亮補とある。浩三の死後、中井がいじって、編集、まとめたらしいが・・・原作のほうがいいと、会場もブーイングの嵐であった。
浩三のオリジナルではもうなくなってしまうよね、いじった段階で。漫画家と編集者の関係がちらっと頭をよぎってしまった。
浩三にとっての故郷は伊勢じゃなく東京だったらしい、というのも
「望郷」という詩で
東京がむしょうに恋しい。
と書いている。
一番気に入ったのがやはりこれ。
「よく生きてきたと思う」
最後の一行に浩三の一番言いたいことが凝縮されている
詩をかいていようか
それでいいではないか
みんながみんなで
めに見えない針で
いじめ合っている世の中だ
といい、だからこそ、もっと自分のことを考え、自分の弱点を知るんだと、人をいじめるのではなく、自分自身をいじめてはどうだと叫んでいる