ポエカフェ 新見南吉篇

今回の場所は雑司が谷のあぶくりさんである。みちくさ市の一番はしっこを越えたとこにある交差点を渡った先のビルの2階にあるのだが、この交差点を越えたのが初めてで、まるで国境を越えたような気分であった。
今回ほど、初参加の人が多かったポエカフェも珍しいのではなかろうか。やはり、新見南吉パワーか?といっても『ごん狐』と『手袋を買いに』しかしらんという人も多かった。
1913年(大正2年)愛知の知多郡生まれの南吉。ということは今年、生誕100周年なんじゃよ。東京でも南吉の展示をやらんかなあ。世田谷美術館とか如何でしょう。
四歳で母逝去。本名は渡辺正八といい、母方の祖母の新見志もの養子となったことから新見正八と改姓。
小さい頃から病弱で孤独な南吉だった。
13歳、卒業式にて
「たんぽぽの 幾日ふまれて 今日の花」という俳句を入れて答辞を読み
周囲を驚かす。何回ふまれようが俺は負けへんでという気迫、踏まれたからこそ、今の自分がおるねんという強さがみえてくる。
石川啄木もそうであったが、詩人というのは代用教員となるのが好きなのだろうか(おい)、山村暮鳥丸山薫もそうらしいぞ。かくいう南吉も代用教員を勤める。
18歳、鈴木三重吉主宰「赤い鳥」初入選。
園年の9月には北原白秋門下の「チチノキ」には参加し、巽聖歌らを知る。そしてあの「ごんきつね」が19歳の時、「赤い鳥」に入選。
これ、ほんとは17歳の時に書いていたのだが、三重吉君が改変したらしい・・・南吉ヴァージョンは大日本図書から出ている『校定新美南吉全集』第10巻に収録されているとのことだ。
21歳、あの「雨にも負けず」が見つかった宮澤賢治友の会に出席。その年、喀血、帰郷。南吉は新井薬師に下宿してたこともあるんだそうな。知ってる地名や行ったことのある場所に住んでたといわれると愛着がわいてきますなぁ。
22歳の時、南吉は早業記録を達成する。「でんでんむしのかなしみ」など童話20篇を20日でやっちゃいました!病による切迫感からなのか。
こういうのってギネスにのらないのかな。
昭和15年、27歳の時、後妻の子の弟の益吉が入営。それを祝うくらいだから、反戦派というよりはお国のためにという考えだったのかもしれない。
南吉は29歳で喉頭結核により死去する。東の宮澤賢治、西の新見南吉とも呼ばれるほどの日本を代表する童話作家だっただけに、もっと長生きして作品を書いてほしかった。
個人的には「貝殻」という詩が一目で気に入ったのだが、テキストにはないので省略(笑)
「雨の音」でどないして、朗読したらええねんと言いたくなるような表現がでてくる。あなたならどう、朗読するだろう。
ざんざん
ざんらん
雨の音。

ざんざんだよ、ざぁざぁではなく。ざんらんって??!
でもこの詩はどこか優しい雰囲気を醸し出しているから不思議だ。

「墓碑銘」という詩では鳥の魂をもった人間の気持ちがストレートに伝わってくる。
どうして傷つけあうのか、どうして憎しみと偽りの言葉ばかり聞かされるのか。弱くてもいいではないか、逃げてもいいではないか。つつましく、優しく生きていきたいだけなのに。そんな悲鳴が聞こえてきそうな詩である。
南吉の童話や詩をもっともっと読みたくなってきた今日のポエカフェであった。