ポエカフェ木下杢太郎篇

第4期の初回である本日は木下杢太郎なのだ。46回目のポエカフェは江古田の中庭の空にて開催され、参加者の3割が初の参加というのもすごいよなあ。
ぴっぽさんが好きすぎてたまらんというこのお方、1885年(明治18年)8月1日静岡の雑貨問屋「米惣」で産声をあげる。8人兄弟の末っ子ということでかわいがられる。大商家のぼんぼんということを念頭にいれてお読みくだされ(笑)
このおぼっちゃんは、歴史・絵画・文学に傾倒していってるのに、両親は、医者にするつもりだった。なので、13歳頃、こんにゃく版雑誌「渓流」を仲間達と作るも親戚から非難轟々の嵐であった。そこで、杢太郎(本名は太田正雄君という)は考えた。本名じゃいかん!と。
木下杢太郎というペンネームの始まりとなる。

杢太郎が十代の頃、浅井忠らを中心とする水彩画ブームだった。杢太郎は、水彩画家として著名だった三宅克己に師事し、学生時代には、自ら水彩画のクラブを起ち上げた。それくらい絵画に没頭していた杢太郎は、当然、画家を志望。美術学校へ進もうとするが、姉(きん)や両親の強い反対で、医学系の学校へ入学。杢太郎の姉たちの名前がねぇ、きんとかくにとか、まぁ、響きはいいんだけどねぇ・・・(笑)
文学者にもなりたかった杢太郎なんだが、医科大学へ進む。
医科に進んだ後も絵を諦めたわけではなく、大正九年には、木村荘八とともに中国の大同石仏寺を取材し、石仏写生をはじめとする多くのスケッチを残している。http://12kai.com/tokyojin_01.html

マルチな才能だよな、この人。医学はやるわ、絵は描くわ、詩は書くわ、戯曲やら小説まで書くわって、どんだけすごいねん!
22歳ー同級の友人、長田秀雄の紹介で、与謝野鉄幹主宰「明星」の同人に。長田秀雄の父は医者で、秀雄は跡を継がなかったのに、その友人の杢太郎が医学博士というのも面白い。

この「明星」には小品「蒸気のにほひ」を本名で発表。医学の道に進んだから、本名でもええやろと思ったのでしょうか(笑)
杢太郎は白秋、吉井勇、平野万里、長田秀雄らとともに「明星」の柱となる。彼らと九州旅行し、その様子が綴られた「五足の靴」があぁ、読みたい。森鴎外と交流を開始。鴎外も医者で文学者だったので、「どないしたらえんでしょう」と相談してたんでしょうね。

23歳ー新詩社を脱退し、白秋、吉井勇石井柏亭山本鼎森田恒友、倉田白羊らとあの伝説の「パンの会」を結成。ぴっぽさんが時間も忘れて、喋りたくなるので、非常に危険な会である。
この耽美交流サロンには高村光太郎上田敏永井荷風谷崎潤一郎といった、大御所たちも続々参加していた。
翌年には新文芸誌「昴」が平野万里・啄木・吉井勇の共同編集で発刊される。
25歳^杢太郎編集の「屋上庭園」が白秋の詩「おかる勘平」により発禁処分となる。これ、お上がエロいのはあかんというたらしいけど、これがあかんいうたら、今の世の中にでてる週刊○とか、全部あかんと思うけど(笑)
この頃、杢太郎はあちこちに書いている。「三田文学」「白樺」「ざんぼあ」などなど。森鴎外の自宅で開催されていた観潮楼歌会にも幾度と、出席し、鴎外に傾倒してゆく。杢太郎は鴎外を生涯に渡って「先生」と呼んで慕い、その死後には鴎外全集の編集も行う。
医学をやりながら、文学までやるとは・・・
27歳で皮膚科学教室に入り、土肥教授につく。戯曲「和泉屋染物店」刊行。
31歳、満州へ。中国文化、古美術への関心高まる。
結婚したのは翌年の32歳の時。
初の詩集「食後の唄」は1919年、34歳で刊行。
39歳で、今の東大の医学部教授。ハンセン病の研究を進めていく。
フランス政府からレジオンドヌール勲章をもらったりと、すごいことだらけなんだが、58歳の頃、この人、またまたすごいことをやっている。
自ら「百花譜」と名づけて、植物写生を始める。その数、2年でなんと872枚。1日2枚以上でっせ。
医学でも文学でも業績を残した杢太郎は終戦の年、ハンセン病の研究半ばにして61歳で胃癌にて逝去。

杢太郎の詩は上品であった、リズムが良かった。読み方が難しい言葉もあるのだが、声に出して読むと、歌舞伎の世界にでもいってるかのような、そんな詩もあった。
「諧音」ではこんな言葉がでてくる

かつし、かつしと我は行く。

言葉が練られているというか・・・かっしなんて出てこないよなと思う。


「うつたへ」のラストはこんな1行である

判じ給ふや、いかに判官

劇や芝居で杢太郎の詩を朗読してみるのも面白そうだなと思った。

5月が大好きな杢太郎は「五月の頌歌(ほめうた)」なんて詩も書いている。
杢太郎、今回だけじゃとてもじゃないけど足らないなと思った。