ポエカフェ第50回

2009年から始めて、あれよあれよという間の節目の50回目は、神保町「伯剌西爾」にて萩原朔太郎である。
今日のポエカフェフードはあんずスコーン。人数分ないので、敬遠策をとって、サンマルクにしたが、これもうめぇ(笑)しっとりして、なおかつおもくないケーキなのだ。
1886年明治19年、前橋にて誕生。医者の長男。小学校時代は病弱、文学を好み、ハーモニカや手風琴(あこーでぃおんともいいまんねん)をたしなむという。マンドリンやギターなどもやってたという。家にどんだけ楽器あんねん!これだけでぼんぼんやなとまた溜息。
「不思議な国のアリス」を愛読してたという。何か1冊、何度も読める本があるというのは幸せなことです。
そんな読書家の朔ちゃんは、18歳で落第。あの朔太郎でさえ、落第するんです、テストくらいで落ち込まなくても大丈夫(笑)
最初は短歌にふけっていた朔太郎。詩が始まりではないんですね、ふむふむ。
20代で竹馬の友というべき室生犀星と出会う。犀星の詩に感動し、ラブレターを出す。この2人、第1印象は最低だったらしい(笑)
かたや、犀星は野人と思われ、かたや朔太郎はきざなインテリ坊ちゃん・・・そして北原白秋に傾倒していく。このごろ、ずっと思慕していたのがエレナはん。この女性が結婚してもなお諦められず。ストーカーとかしてへんやろね、朔ちゃん。
31歳のとき、朔太郎といえばこれという代表作の「月に吠える」が刊行される。朔太郎がエレナへの思いを内に秘めつつ結婚したのが33歳。
犀星、大手拓次らと交流があった朔太郎が、群馬の詩人、高橋元吉とも交流。
純情小曲集を出した頃、田端に住んでいた朔太郎だが、大の田端嫌い(笑)住めば都というが、住んでもあかんということだったのか。
41歳、三好達治梶井基次郎らを知る。芥川龍之介の自殺に衝撃。
43歳、妻と破綻。草野心平萩原恭次郎と交流。白秋の門下生、三羽烏の一人であった大手拓次の遺骨を上野駅に見送る。大手拓次は2400篇もの詩を書くも生前、1冊も本を出せなかった。
享年56歳。ぴっぽさんを近代詩の大海原へと駆り出した朔太郎の詩を少し。といいながら「月に吠える」の序文が一番おすすめ(笑)
これは白秋から朔太郎への熱いラブレターである。序文というよりももはや私的文書(笑)
萩原君。
何と云っても私は君を愛する。
こんな温かい心のこもった一行から始まる序文を私は知らない。
朔太郎も白秋も何者だろうという人が読んでもじーんとくるのではなかろうか。
仕事だから、義理だからというような社交辞令的なものが一切なく、てらいもなくさらけだしたラブレター。
この後に朔太郎の序文が続くが、これはこれで堅苦しくていいのだ。
詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。とあり、特にいいのがこの一文。
詩とは感情の神経を掴んだものである。
生きて働く心理学である。
「月に吠える」を書店で、古本屋で見かけたら、彼ら二人の序文だけでいいから読んでみてほしい。

まっすぐなひたすら空まで続くような竹を思い浮かべるような詩がこれ。
「竹」
ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、

まっすぐどこまでもまっすぐに己の道を・・・そんなことを思う詩。

朔太郎と私と恒例の自己紹介で、朔太郎の詩の中で人気があったのが「遺傳」である。
だが、私は「月に吠える」の序文が気に入ったので、アンカットのページを切り取りながら、まずはこれを読み進めていきたい。
さぁ、お次は秩父へ遠足やでーーーーー!おっと、その前に酒篇があったんや。秋のポエカフェはイベント盛り沢山なり。