第65回ポエカフェ 君は中原中也を好きですか篇

今回は第1回で取り上げた大御所の中原中也。初参加の人が沢山いたこととやたら田中さん率の高い会となりました(笑)
山口の湯田温泉で1907年に生まれた中也。裕福な家に生まれるが8歳の時、弟が病死。亡き弟を歌ったのが最初の詩作。詩を読むというより、書くことから始まった中也の詩との関わり。
13歳、旧制山口中学に12番の成績で入学。優秀だったのに、文学書ばかり読んでいたため、3年生を落第し、親父の期待をあっさり裏切る中也。子供に過度に期待してはいかんちゅうことやね。しかし、家庭教師をつけるのはわかるけど、精神修行で大分の西光寺にやるって、このお父さんの厳しさもハンパないなあ。
ここまではまだ、わかるし、厳しい親父やってんなということにしようではないか。が背広の親父は落胆の余り、炬燵にもぐりこんだという話をきいて、これはありえへんやろ(笑)
16歳、故郷を追放されるような半ば、勘当だろうか。そんな形で京都の立命中学3年に編入学し、波乱の一人暮らしが始まるのだ。古本屋で高橋新吉ダダイスト新吉の詩」を読み、秀樹ならぬ中也感激。
ダダ風の詩を書きながら、川沿いへと川沿いへと引越を繰り返す中也。最初から川沿いへ住んだらええやんと突っ込みたくなる。
この年、中也といえばこの女である。女優の長谷川泰子と知り合い、恋に落ちる。「中也との恋 ゆきてかへらぬ」(角川ソフィア文庫)が中也と小林秀雄と泰子の関係についてそれはもう、詳しく書いてあり、ぶち面白いので、こちらを参考文献ならぬ中也必読文献として個人的にお勧めしておきます。
17歳で泰子と同棲。フランス語に堪能な画家であり、詩人でもある富永太郎と知り合う。この二人、磁石のようにお互い気に入ったのか、急激に交流を深めていく。中也は太郎宅の傍へ引越して(川沿いはもうええんか?)
文学的交流を深める。だが中也の傲慢で戦闘的な気性に太郎は嫌気がさし、避けはじめ、病気で喀血した太郎は東京へ帰るって・・・臨終の場に呼ぶのも拒否したらしい。どんだけアクが強いんだ、中也よ!
18歳の時、太郎の詩友の小林秀雄と知り合う。太郎の時と同じく、秀雄にも波状攻撃ならぬ波状訪問する中也。学べよ!秀雄に絶交され泰子も去り、中也孤立する。
ここからはもうどろどろの三角関係なのでさっさと進むことにします。泰子は精神を病み、しかも極度の潔癖症を発症。秀雄は根気強く泰子につきあう。一方、中也は泰子を諦めてはいないが、歩行と読書、思考を日課とし、河上徹太郎大岡昇平と知り合う。そして中也21歳の時、遂にぶちっと血管がきれたのか、秀雄が泰子の前から消える。さぁ、中也はと言うと、うきうきでルンルン気分で大岡曰く、今考えても胸糞悪いわと言われるくらいの態度だったらしく、ポエカフェ同人の評価も底なしに下げていったと思われます(笑)
泰子の頭の中には中也なんてものはとっくにないのに23歳の時、あろうことか泰子と他の男との間の子供に茂樹と命名。というのも泰子の男が逃亡したからで、こいつに認知を迫ったり、泰子の面倒を見続ける中也は純粋というべきか、ストーカーというべきか・・
25歳で第一詩集「山羊の歌」刊行に向け、資金集めの為、予約募集するも10数名しか集まらず、再度募集したら、今度はゼロ。母に資金借りて印刷するも出版までこぎつけることできず、安原喜弘が預かることとなる。
秀雄の紹介で、当時、勢いのあった同人誌「四季」に詩を発表し、立原道造、堀辰夫、丸山薫三好達治らと知り合う。26歳、フランス語を教え始める。やはり成績優秀だっただけのことはある中也なのだ。
上野孝子と結婚。翻訳した「ランボオ詩集」を刊行、これが中也の第一著作である。
27歳ー長男文也誕生。太宰治と知り合い、太宰にしょっちゅう、喧嘩をふっかけていたらしい。ほんま友人を大事にせえへん男や(笑)こんな中也に秀雄が奔走し、この年、念願の第一詩集「山羊の歌」が刊行となる。
啄木に金田一、中也に秀雄、ねこに鰹節。
中也29歳の11月に文也、病死。中也の私生活は褒められたものでもないし、泰子に対しても突っ込みたくなることばかりしてるが、子供のことに関しては運命は中也に残酷な試練を与える。神は乗り越えられない試練は与えないというが、中也は愛児の死から立ち直ることできず、ノイローゼとなる。その後、30歳の若さで1937年に亡くなる。
生前に出した詩集は「山羊の歌」だけの中也。そんな中也の詩で一番有名なのが「汚れっちまった悲しみに」であろう。今回、これをくじで引き当てたKさんが、よごれと読まずにけがれと僕は敢えて読みたいとケガレ派宣言をした。
私はこの詩の 今日も風さえ吹きすぎる このフレーズが一番好きだなあ。
「盲目の秋」は泰子への激しい思いがひしひしと伝わってくる哀しい詩である。特に次のフレーズが突き刺さる。
ごく、自然に、だが自然に愛せるということは、
そんなにたびたびあることでなく、(略)そう誰にでも許されてはいないのだ。
もう自分のもとには戻らないと気付いた中也の全身全霊の思いをぶつけた、そんな詩。
くじで読まれはしなかったが師匠のぴっぽさんは「曇天」という詩がお好きだとのこと。
この詩の中に出てくる旗は黒なのだ。この黒にどんな意味を哀しみをこめたのか。
空の奥処(おくが)に舞い入る如く。なんていうフレーズが特にきれいで心に残る。
中也の詩はフレーズがきれいなのだ。リズムよくすっと心に入ってくる心地良さがある。
そうかと思えば1行目から強烈でどきっとさせられる詩がこれ 「春日狂想」
愛する者が死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。
こんな悲しいこと言われてはどうにもならないではないかと思いつつ、先を読むと
奉仕の気持ちになることですとある。
中也には長男の死を乗り越えてもっともっと詩を書いてほしかった。
「酒場にて(初稿)」もいいフレーズがある
ほんとのほがらかは、
悲しい時に悲しいだけ悲しんでいられることでこそあれ。
とあり、最後の行で
僕は僕が書くように生きていたのだ。
中也の思いがストレートに伝わってきて、印象的だ。