ポエカフェ 犬派VS猫派篇

本日のポエカフェは犬&猫なのだ。犬か猫かと言われたら鳥派ですという強者も交えてのポエカフェ。
ペットランキングなるものを検索してみると日本で一番飼われてるのは犬。次が猫なんだそうな。
今回、テキストがなんと7枚。木下杢太郎から始まっておまけのぴっぽ師匠までざっと40人。紅白歌合戦ならぬ犬VS猫の朗読合戦ができそうな勢いである。
杢太郎は「金粉酒」という詩なんだけど三味線やらリキュールグラスやらおしゃれで、ぶっとんでて私には理解不能なんで犀星にさっさと行きます(笑)
室生犀星は「猫のうた」
猫は時計のかはりになりますか。

で始まる。そんなん、なりませんよと内心突っ込みながら読む。猫にゃ腹時計なんてものはないらしい。だから餌を無尽蔵にあげりゃ、ブクブク私のように太るんだよ。
この詩、真ん中あたりにいいことが書いてある。

猫の性質は
人間の性質をみることがうまくて
http://blog-imgs-49.fc2.com/n/e/c/neconeconews/syasin6.jpg
ここに犀星と猫の画像あります。火鉢の猫、可愛すぎだろ。

まどみちお「ネコ」
あくびを するとき
ネコのかおは花のようになります

と何とも猫が好きなんだなあというのがにじんでくるような表現から始まる。
こういう詩を書けるのは平和な時じゃないと書けないよなとも思う。
日常の猫の表情を垣間見てると、こっちに喋ってくれない分、面白い。飽きないのだ。無愛想だけど、親切じゃないけども。

弊店でも販売中の堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』にもいいのがある。

冬の旅、心に猫を従えて誰も死なない埠頭を目指す

どんな猫を従えるのだろう。強い決意が窺える。

尾崎放哉はやはりこれだな

用事の有りそうな犬が歩いている

これは犬の方が忙しそうだなと言いたいんでしょうね(笑)それとも犬に構ってほしかったのか。

萩原朔太郎 「猫」
これは最後の行が強烈

『おわああ、ここの家の主人は病気です』

もう、そうですねとしか言いようがない(笑)池袋の野良猫たちもこんな会話をしてるのかもしれない。ますく堂はいつも人がこねぇと・・・
中原中也「冬の夜」はもうこの2行が抜群に素敵である。

影と煙草と僕と犬
えもいわれないカクテールです

その次の行も何気にいい
 2
空気よりよいものはないのです

私は冬の寒さが苦手だけどこの寒いが故のきりっとした空気は引き締まるものがあって好きだ。

立原道造といえば、小鳥だのなんだのそういうイメージが強いらしい。今回、犬、猫の詩はないものかと前期草稿から見つけたというポエカフェ同人が!
犬の詩は6篇、猫はたったひとつのみという。

「正午」
日向の猫は 眼をとぢる
それは彼女が青空をきらひからだ
そしていつの間にか眠ってしまう

私はぼぉっと読んでたけど、他のポエカフェ同人からは鋭い突っ込みが。この猫は彼女なんだねと。
そりゃ、これ、野郎じゃあかんでしょ(笑)ここは野郎をイメージしたくはないよ、あたしゃ。
この突っ込みから、猫に詳しい方が、三毛猫はほぼ雄ですと教えてくださいました。
毛の色によって性格がわかるなんていうお話もあって、興味津々なポエカフェだったのら。

これは朗読はされなかったが、山之口獏「底を歩いて」
強烈に突き刺さる。

なんのために
生きているのか

いつまで経っても
社会の底にばかりいて
まるで犬か猫みたいじゃないかと
ぼくは時に自分を罵るのだが
人間ぶったぼくのおもいあがりなのか
猫や犬に即して
自分のことを比べてみると
いかにも人間みたいに見えるじゃないか

山之口獏だからこその説得力、強さがここにはある。

現役詩人、西尾勝彦さんの「そぼく」もテキストに掲載されていてうれしかった。
いつからか
素朴に
暮らしていきたいと
思うようになりました

損得では動かなくなりました
わたしはわたしになりました

損得でしか動かない私にはもうハンマーで殴られたような衝撃なのだ。
自分が自分になれていない、自分のものにできていない私にはこの最後の2行だけでノックアウトである。

もうひとつ杉山平一「わからない」これも好きなので、のっけるぞ。
お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

妹は犬の頭をなでて
よしよしといいました

犬の名はジョンといいます

これねぇ、負の連鎖が父から母、母から兄、兄から妹へと続いていってしまうのだ。要するに八つ当たり。
でも妹は犬に八つ当たりせず、自分でマイナスの空気を断ち切ったのだ。そこが偉い。
ここは犬に癒されたからジョンも偉いというべきかもしれないが。
こういう負の連鎖って大人は注意しないといかん。自分が怒られたからって八つ当たりしてちゃいかんのだ。

村上昭夫「誰かが言ったにちがいない」これも動物がテーマの時は忘れちゃいけない詩だ。
誰かが言ったにちがいない
あの犬を連れていってくれるように

だが私ならどうしたらいい
連れ去られてゆくあの犬を
黙ってみていた私は

猫にも鶏にも手を出さない犬なのに野良犬というだけで殺されるこの理不尽さがじわりじわり伝わってくる。
それでも何もできない自分がいるということも客観的に書いていて、なお、切なくなってくる。

放哉が書いたなら種田山頭火もあります。
ついてくる犬よおまへも宿なしか

未だ現役の第一線で活躍する1931年生まれの谷川俊太郎「ネロ」最後の行が私に問いかけてくる
すべての僕の質問に自ら答えるために

2回しか夏を過ごせなかったネロ。かたやもう18回も夏を過ごしてきた僕。でもネロと過ごした夏と同じ夏は二度と来ない。
哀しい詩ではあるが最後の行の力強さ、前向きな部分が哀しいだけじゃないよと言っているようだ。
このネロというのは隣家の犬らしい。