ぴっぽさんの背骨!ポエカフェ竹中郁篇

ぴっぽさんが大好きという竹中郁が今回のテーマなのだが、以前、北園克衛とセットでポエカフェをやったらしく、今回は堂々、一人主役でのリターンズなのだ。
神戸で詩人といえば竹中郁なのだ。そうか、神戸にいたのに、全然知らなかった、おばかだ・・・しかもつい最近、何も知らずに「美の巨人」の小磯良平の回を見て、おお、竹中郁がでているではないかっと驚いた次第。この番組、DVD化してほしいなり。
1904年、明治37年のエイプリルフールとやらに神戸で生まれた竹中郁
このお方、とってもお金持ちの家のご出身であります。1歳で竹中家へ養子に出される。
虚弱で入退院を繰り返していたこのぼんぼんが中学生の時、なんと、テニスコートつきの家を新築したという・・・
神戸二中に入学すると、生涯の友となる小磯良平と同級に。そしてテニスをしだしてからは、身体も頑丈に。北原白秋に夢中になり、詩作を開始。
18歳の時、竹中郁月刊詩集「万華鏡」を発行。
19歳で白秋・山田耕筰主宰「詩と音楽」に詩が掲載される。新進11人に選出されたらしい。あとの10人って誰だ?
小磯と同じ東京美術学校に入学を希望するも養父母の反対で関西学院英文科に入学。
ちょっと検索してみたら、宮崎修二朗翁の『環状彷徨』の、箱に書かれた絵は竹中郁
http://t.co/J9cBRokP
ぴっぽさんがツイッターでリンクを貼ってくれていて、興味深く拝読。
小磯良平の手ほどきで絵を始めるも彼の才能に圧倒され、断念したというくだり。
友であり、才能に嫉妬するほどのライバルがいるというのが素晴らしい。ジャンルは違えど、切磋琢磨しあえる友がいるのがいい。
検索してたら、面白かったのでこのブログもリンク貼っておきます。
神戸のモダニズム詩人竹中郁の生涯の年下の友人、足立巻一。足立の書いた「評伝 竹中郁」も読んでみたい。詩を書くという作業は孤独なものかもしれない。いや、孤独を知らないと書けないのかもしれない。だが、竹中郁の再評価という使命感に燃えて、評伝を書く友がいる。どれだけ竹中郁という人物が魅力的だったかということがうかがえる。
http://www.sogensha.co.jp/page03/a_rensai/kosho/kosho27.
20歳ー中学の先輩、福原清らと同人詩誌「羅針」創刊。自宅を発行所とし、「海港詩人倶楽部」と称する。北川冬彦安西冬衛らの短詩系の同人誌「亜」のグループと交流。
すごいのが翌年。なんとJ・コクトオの本邦初訳を発表。西脇順三郎が「コクトーよりもすぐれている」と評し、稲垣足穂が「我日本の新しき、海港の詩人」と呼んだってとあるブログに書いてある。しかもぴっぽさんの名前もでているぞ(笑)
今日はちょっと検索すると面白いものに遭遇するなあ。
詩誌「射手」「豹」など創刊。
22歳ー第一詩集「黄蜂と花粉」(100部)自費出版。昔は違ったのかもしれないが、知人によると100部より、200部のほうが、定価の値段を抑えられるので、やむなく200にしたと聞いたことがある。この頃はまだお坊ちゃんだからお金はあったんだろうね。印刷でも同様のことはある。少なめに抑えたいのに、値段が割高だから仕方なく倍の数、印刷するという、この歯がゆい鉄則(笑)
23歳、昭和2年。小磯良平の卒業制作のモデルに。「美の巨人」小磯良平の回(7・28)でも紹介された「彼の休息」あのラグビーのユニフォームを着て、ちょっとリラックスしたというか、あの姿勢を描くのって難しいと思うのだが。これ、史上最高点だったとか。
大学を卒業すると、家業に就けと命令されるも東京で半年、下宿。近藤東、春山行夫、芥川、堀辰雄などと交流。
24歳。次に自費出版したのが「枝の祝日」という第二詩集。今度は300部。2年間のヨーロッパ留学。写真家マン・レイブルトンに感銘を受け「シネ・ポエム」制作開始。
27歳結婚。ここでも家業せんかいと催促されるも従わずって、こればかりは譲れないという強い気持ちがあったのだろう。
第三詩集「一匙の雲」第四詩集「象牙海岸」と立て続けに刊行。堀辰雄創刊の「四季」にも参加。
32歳肺結核。丈夫になったのに・・・大丈夫かいな。第五詩集「署名」刊行。森鴎外に傾倒。全作読破。
さぁ、昭和17年といえば、あれです、杉山平一君の結婚式ですよ。もうお分かりですね(笑)竹中君はスピーチをしました。その日、日本初の空襲警報・・・
40歳のところで町内会の世話に明け暮れるって・・・あぁ、ええ人や。
そんなええ人の生活を一瞬にして破壊してしまう戦争。
41歳(昭和20年)3月、神戸空襲。実家、生家消滅。養母を引き取るも、6月に自宅も消失。蔵書4千冊が灰に。彼はどんな本を読んでいたのだろうか。森鴎外の本があり、それからそれから・・・
42歳で初めて会社に入る。その名は神港新聞社。が翌年には退社し、文筆活動に専念。井上靖のすすめで児童詩誌の創刊の準備を進める。
竹中郁のライフワークともいうべき主要な仕事の始まりである。
44歳。児童詩誌「きりん」尾崎書房から創刊。監修をつとめる。第七詩集「動物磁気」刊行。余談だが、井上靖は「たんぽぽ」と命名したのに竹中郁が「きりんじゃー」とつっぱねたとか(笑)
以後、「子ども詩の会」を毎月一度開催し、三十年近く、坂本遼とともに詩の指導行う。
50代から校歌・社歌の作詞依頼ふえ、生涯で200篇以上も作る。近鉄バッファローズの歌もとある。おおお!http://www.youtube.com/watch?v=auiTLR06Qnc&feature=player_detailpage この球団名も今はない。このユニフォームも好きだったのになあ。金村、野茂、仰木監督・・・
64歳第八詩集「そのほか」刊行。
67歳「きりん」220号をもって終刊。
69歳(1973年)神戸市民文化賞・紫綬褒章
75歳最後の詩集、第九詩集「ポルカマズルカ」刊行・76歳まで「子ども詩の会」の講師をしていたというのだから、もう尊敬以外のなにものでもない。
78歳で病死。
竹中郁、短い詩が多くて何より(笑)第二詩集の中から、気になったのが、まずは
「秋昼」の最後の一行。
ここで魂とはぐれてしまひたい

第三詩集の「子供」という詩もいい。
雨があがる。水たまりがのこる。子供は踏まないやうに海峡を越えてゆく。

誰でも水たまりをとびこえていった思い出が蘇るのではないだろうか。これ、海峡ってのがいいな。ちっちゃな水たまりがすごく広い世界へと飛躍していく。

第六詩集の「一本の釘」昭和19年に刊行された詩だけにいろんな意味にとれる。
10歳の娘が拾ってきた1本の釘。お国の為に。このスローガンのもとに、日本国民は一本の釘さえも。愛国精神ともとれる。
だが最後の行の「父は切に祈る」というフレーズがずしんと残るのだ。この錆びた一本の釘のことを忘れないでと娘に切に願う父の気持ち。
釘さえも国に差し出す民があるかと思えば、暖房でぬくぬく暮らしている国もある。戦争とは何なのか。

戦争についての詩といえば「二年前の日記」「書物」もある。こちらも是非ご覧ください。
本好きとしては「書物」ははずせん。
書物のことを思うと咽喉をしめられるやうだと冒頭にある。ラストではそらんじている文句もあると。
失ったものの大きさが・・・もうはかりしれない。傷跡の大きささえも。
いいとこのお坊ちゃんだった竹中郁が戦後、家族を支える大黒柱として一家を支えていく。やっと貧乏がキーワードの近代詩人っぽくなってきたともいえる(おい)
「算術A」が面白いんだよ。
うちの家族は十二人
まいにち出あるく人間が七人といい、でも傘は六本しかないんですという詩。買えばいいじゃんなんて言ってはいけない。それができないから明るくユーモラスに詩にしているのだ。
これ、タイトルを「傘がない!」でもいい。映画のタイトルに〜がないっていうのがいくつかありましたな。
しかし何と言うタイミングのいいことだ。つい先日、カナブンだと思わずに羽音にびびって、殺虫剤を噴射した私が翌日、カナブンの詩を目にすることになろうとは(笑)
「償ひ」にでてくるカナブンは無闇矢鱈に飛び回る。うん、まさにその通りだったよ・・・
だが、これはかなぶんに我を投影している、償いの詩なのだ。
「桃・麦・あなた」では
しゃべりつづけて生きましょうよと詠う。小熊秀雄の「しゃべりまくれ」を思い浮かべてしまった。
第八詩集は「そのほか」このタイトルは子供に詩の指導をしている頃で、今はこれが一番大事。自分が詩を書くというのはそのほかなんだという意味をこめてのことらしい。
私も詩を教えてもらいたかったなあ。
「夏の旅」が写実的なイメージが浮かんできて、これまたいい。
えんぴつをけずる
えんぴつは山の匂いがする

えんぴつをはしらせる

夏の旅はすこぶる手軽だ
二千円の旅も十円だ

すごく楽しそうだなあ。鉛筆がすいすいと画用紙の上を走っていくさまが目に浮かぶ。
竹中郁は光の詩人とよばれ、周囲からは太陽のような存在だった。だからこそ、神戸で詩人といえば、竹中郁なのだろう。
児童詩誌「きりん」が読んでみたい。ポエカフェのテキストにのっている「あくび」がとても好きだ
お父さんがあくびをした 5秒らしい。世界新記録ですと。いいねぇ。