ポエカフェ 高見順篇

江古田の「中庭の空」にて開催された高見順篇。
福井県生まれの彼。同郷に荒川洋治氏もいらっしゃる。すごいぞ、福井県高見恭子の父でもある。
高見順は1907年(明治40年)福井県知事坂本詝之助の妾の子として生まれる。この父が永井荷風の父の実弟というからのっけから色々驚かされる。福井で生まれるも1歳ですぐ父の転任に伴い、母(高間古代)と上京。しばしばいじめにあっていたという。出生のことでいじめにあっていたのだろうか。そんなこと子供には何の罪もないのに。

12歳ー東京府立第一中学に入学。この頃、白樺派の作品に親しみ、詩のようなものを書く。友人と回覧雑誌を作る。
1922年(大正11年)15歳で何を思ったか、社会主義に目覚める。15歳の私は「全然、背が伸びん・・・」と自虐ネタに目覚めていたのとは大違いである。
翌年、関東大震災で東京の無残な姿に衝撃を受けつつ、破壊の魅力も感じる。

18歳ードイツより帰国の今でも人気の村山知義などの影響を受け、最初のダダイズム系同人雑誌「廻転時代」創刊。
翌年、初めて故郷の三国市を母と訪ねる。

20歳、エリート街道まっしぐらで東京帝国大学に入学。
新田潤らと同人雑誌「文芸交錯」刊行。壺井繁治らとも交流。

21歳ー左翼芸術同盟結成。創刊の機関誌から筆名高見順を使う

23歳ー石田愛子と結婚、母と別居し、大森へ引っ越す。
研究社の和英辞典編集部に臨時雇いで働く。
父に庶子として認知してもらう。
この人、面白いとこであちこち働いてるなあ。
お次はコロムビア・レコード会社の川崎工場教育部に教育レコード係として勤務。レコードが教材になっていたこの時代。

24歳ー日本プロレタリア作家同盟城南支部のキャップとして積極的に活動。

26歳(1933年)ー治安維持法違反の疑いで、逮捕、拷問を受ける。留置中に小林多喜二が虐殺される。中野重治もそうだったが、転向し、釈放される。が、妻は去っていた。

翌年、水谷秋子と出会い、1935年に結婚。この年は高見順にとって、大きな出来事が続く。饒舌体という手法で高い評価を得た「故旧忘れ得べき」が第1回の芥川賞候補に。ちなみに受賞したのは石川達三。「私生児」を「中央公論」に発表。

1936年コロムビア退職し、文筆活動に専念。
この頃は随筆、自叙伝などを怒涛のごとく発表。
31歳の時、浅草に仕事部屋を借りる。今でも残っているのだろうか。
34歳ー陸軍報道班員として徴用され、太平洋戦争開始時は香港にいた。35歳の新年をバンコクで迎え、ビルマ、中国と渡り、帰国。鎌倉市へ転居。
終戦の年、鎌倉で貸本屋鎌倉文庫」設立。
39歳の時、胃潰瘍
41歳の時は、鎌倉アカデミアの講師となるも結核となり、平野謙と交代。
詩作は学生の頃にやり始めたものの、ずっと小説を書いていたので、第1詩集はなんと43歳でしかも自費出版で刊行。(限定300部)
45歳の時、先端恐怖症、白壁恐怖でノイローゼになり、執筆休止。若い時分から執筆活動が盛んだった高見だが38歳頃から、体調に支障をきたすようになっていく。だがまだまだ高見は衰えない。ノイローゼも奈良の寺院めぐりで半年で快方に。46歳から56歳までの間が最も心身充実。
55歳ー芥川賞選考委員に。伊藤整、小田切進らと「日本近代文学館」の設立準備も始める。
56歳ー「いやな感じ」が第10回新潮社文学賞に。食道癌と診断される。
57歳ー今度は「死の淵より」で野間文芸賞受賞。
1965年58歳、日本近代文学館の起工式にメッセージを送り翌日の8月17日に死去。

「差別」という詩と最後の行が似ているなあと思ったのが「鉛筆は悲しい」という詩
〜人間もほんとうはそのようにありたい〜
「差別」の最後は
〜人間も人間なら人間のままでいいのに〜 と結ばれている。

「葡萄に種子があるように」「喜び悲しみ」「鉛筆は悲しい」この3つの詩は連作で読むとなんだか、続いているなあと感じた。悲しみについての詩だけど、透明感があって、どんよりとした暗さではないのだ。
それは「死の淵より」という詩集でも言えると思う。
「帰る旅」や「魂よ」でも悲しみを、死に直面した今の状況を昇華させているような気がするのだ。
「帰る旅」では
〜大地へ帰る死を悲しんではいけない
 肉体とともに精神も
 わが家へ帰れるのである
で、最後に
〜はかない旅を楽しみたいのである〜
としめくくっている。
一方、「魂よ」では、魂よ、おまえより、食道のほうが私にとっては
ずっと貴重だったのだと痛烈な言葉で、それでも今のしんどさを楽しんでやると、ガンなんかには負けてられないよと言ってる様な気がするのは私だけだろうか。

高見順は名もなき雑草を愛した。花や草をテーマにした詩も多い。
「花」では
カトレアやバラより、けなげな花に会いたいと。この詩でさらに
いいのが、僕の大事な一部、つまりは僕の友人に会いたいのですと
詩っているのが、じーんとくる。
「われは草なり」
これ、朗読も楽しい。なり、なりと語尾が〔なり〕ばかりなのだ。
冒頭からこの詩はいいのだ。
〜われは草なり 伸びんとす
 伸びられぬ日は 伸びぬなり
 伸びられる日は 伸びるなり〜

おとらさんのラムレーズンのパウンドケーキがまた食べたい。ポエカフェで食べてばかりの私である。