帰ってきた田中冬二篇

20日前にやったばかりの田中冬二。今回はこぢんまりと喫茶伯剌西爾の小部屋を占領してのリターンズ。初回よりは人数少ないけど、前回の参加者が半数を占めるというこの凄さ。冬二、来てるぞ来てるぞ、復刊するなら今だぞ!
1894年福島で生まれ、本名は吉之助といいますねん。今の日本みたいな少子化時代じゃないんで下に妹二人と弟一人おって、僕が長男ですねん。
僕の両親は富山出身で父は安田銀行に勤務。その父が7歳の時に亡くなり、東京の祖父の元に仲のよい下男の銀蔵と一緒に上京。1904年に祖父逝去。長男として10歳で家督を継がされます。12歳の時に母も亡くなり、孤児となってしまいます。叔父の安田善助の家で生活しますが弟、妹たちとは離れ離れに。わがままもぐっと我慢し、寂しい思いを抱えて生きていきます。
14歳で立教中学へ入学。この頃より文学に興味持ち、16歳で友人と回覧雑誌「紅筆」を開始。投稿文芸雑誌「文章世界」「アララギ」へ投稿。
17歳ー「読売新聞」に短歌を投稿。「文章世界」へ投稿した短文「旅にて」が特選(田山花袋選)この「文章世界」には芥川龍之介菊池寛室生犀星斉藤茂吉といった錚々たる作家たちも投稿していて、冬二はそんなすごいとこで特選に選ばれていたのだ。でこの時に初めて「田中冬二のペンネームを使用するねん。ええ名前やろ。その頃は〜二とつけるのが流行っててん。僕は冬が好きやさかい、冬二。でもこの後、文学から一年遠ざかるねん。
19歳、文学をやりたかった僕は早大英文科を狙っててんけど孤児という境遇から断念。叔父の関係する第三銀行安田銀行、現富士銀行)へ就職し、出雲の今市支店に勤務。以後、定年まで36年間、山陰、大阪、東京、信州、東北と各地をたらい回しにされるねん。なんでこんな転勤ばっかさせるかというと、ポエカフェ同人が教えてくれてんけどね。癒着防止やねんって。はぁ、ため息しかでてこんわ。
20,21歳頃、ロシア、北欧文学、ベルグソンニーチェ等を読む。読書だけじゃなくて遊興も覚え下宿に町の芸者が顔を見せたりして、叔父達に心配かけるねん。ま、若気の至りってやつやん。たまには息抜きも必要やねん。と
24歳、大阪の堀江支店に勤務。短歌を始めるねん。一枚の紙に印刷した歌集「凍れる愛」を友人に配る。このあたりで詩作も開始。
28歳ー詩誌「詩聖」へ投稿した作品「蚊帳」が第一書房のドン、長谷川巳之吉に評価される。銀座支店勤務となり、長谷川はんの絶えざる激励と指導を受けるねん。
1923年、えらいこっちゃ。関東大震災で所有物一切を失ってまうねん。僕は職場の大事なものから持って逃げたさかい、自分の私物まで余裕なかってん。ここで中原中也やったら絶対、自分のものを真っ先に持って逃げるでと中也、めったうち。安田銀行銀座支店に勤務再開。
31歳、今井ノブと結婚し中野の桃園町に住む。その翌年、長女喜子誕生。
33歳、長男昭一郎誕生。
35歳、第一書房から堀口大學編集の「オルフェオン」創刊し、ここに詩を発表。そして12月に遂に第一詩集「青い夜道」刊行。抒情的な風景詩人として詩壇に認められるねん。36歳、詩集「海の見える石段」刊行。
翌年、三女立子誕生。
41歳、詩誌「四季」へ作品載せ始める。詩集「山鴫」刊行。はい、次、アンダーライン。11月萩原朔太郎と偶然、渋谷のガード下で出会う。東横デパート7階で歓談したんやで。朔太郎はんは僕にある詩をええやろって同意を求めるねん・・・それが次の詩やねん。

地下鐵道さぶうえいにて

ひとり來りて地下鐵道さぶうえいの
青き歩廊ほうむをさまよひつ
君待ちかねて悲しめど
君が夢には無きものを
なに幻影まぼろしの後尾燈
空洞うつろに暗きトンネルの
壁に映りて消え行けり。
壁に映りて過ぎ行けり。
「なに幻影まぼろしの後尾燈」「なに幻影まぼろしの戀人を」に通ず。掛ケ詞。

青空文庫氷島 萩原朔太郎」より。

今やったら会った記念に写メを撮ってるんやろけどねぇ。42歳で今度は浅草支店の支店長代理に。詩集「花冷え」刊行。45歳、長野で支店長。信州の土地柄を愛し、最も安らかで快適な時代と冬二、ご満悦で多くの詩作したなり。ずっと長野にいたかっただろうにねぇ。
46歳、「故園の歌」刊行。49歳「橡の黄葉」刊行。堀口大學と戦争詩のあり方について語る。50歳、仲間の詩人たちも次々応召。「菽麦集」刊行。家族は疎開
51歳、「文藝」に詩篇掲載。第1回目の郡山空襲を体験。そしてこの年、終戦
52歳、立川支店長。当時、日野に住んでいた伊藤整と交流。53歳、詩集「春愁」刊行。55歳、長女喜子自死。銀行を定年退職し、新太陽社の専務取締役。「モダン日本」の救援に奔走。
66歳で日本現代詩人会のH氏賞選考委員長。それからも晩年まで詩集を精力的に刊行。77歳、日本現代詩人会会長に就任。紫綬褒章受章。
1980年85歳、日野二中の校歌をお孫さんにピアノで弾いてとリクエスト。校歌に関してはちょっと厳しかった冬二。高校野球をよくみていた冬二。野球が好きというより勝ったチームが歌う校歌の歌詞をチェックしていたとは!気に入らない歌詞があると本名じゃなくてペンネーム(ごえもんとかね)で文句を葉書に書いて、お孫さんに投函するようにと玄関に置いていたらしい。ううむ、学校宛なのか高野連なのかそれは不明らしいけど言葉を吟味して削って削って推敲して詩を作ってた冬二らしい。冬二の葉書を持ってる高校があったら、あぁ、貴重な資料なのよ、それ!本名じゃないんだけど捨てたらあかんねん!冬二は枕元に筆記用具をいつも置いていてすぐに詩がかけるようにしていたとのこと。
85歳、死去。生涯、18冊の詩集を刊行した冬二。書店にないがな・・・復刊求む。
前回に続いてありがたいことに冬二のお孫さんが参加してくださり、校歌の話など座布団あげたくなるような面白いエピソードをいくつかお聞きしたづら。
校歌の話に続いて面白かったのがこれ。冬二の詩集には限定50部など部数の少ないものもある。そんな場合でも冬二はその中から友人や仲間の詩人に配っていたのだ。そして当然、反応がきになるよねぇ。詩集を送っては日々、郵便ポストを気にしていた冬二。知人からの返事はまだかまだかと。家から100メートル先に行ってまた戻ってきたりとかわいい一面をみせる冬二に奥様の一言がいい。「お知り合いはみな、あなたと違って仕事もあるんですからそんなにすぐには読めないですよ」と。冬二さん、気持ちはわかるけど、ま、待てば海路の日和ありで落ち着こう。
冬二のご葬儀の際、弔問者への返礼品を包んだと云う丁子茶色絞り地の風呂敷をお孫さんが御持参してくださいました。冬二の「あぢさいいろ」の詩が書かれていました。冬二の展示があるときだけ見られる図録も拝見。あぁ、これもほしいぞ。やっぱり復刊しなきゃだめだ冬二!
冬二が愛した故郷。それは生地。ここの旅館「たなかや」のリンク先にもジャンプしてみてくださいまし。お孫さん曰く冬二コースなるものが存在するとな!
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お孫さんは朗読の片道切符で好きな詩「さむい月の出」を朗読してくださいました。
サフラン色の冬のよふけ と素敵な色のイメージが浮かぶ1行で始まるこの詩、最後は

乞食の子は
さむいよふけ
ひとり王子のやうな ふしぎなゆめをみてゐる

乞食と王子といえばマーク・トゥエイン「王子と乞食」を思い出してしまう。しかも私は原作じゃなくて「ガラスの仮面」で姫川亜弓がやってたのを(おい)

「幼きものに 二」この詩で読まない本なんか買わずに孫に靴下を買ってあげなさいというんだけど
お孫さん曰く、祖父母とお孫さん、お孫さんのお母さまの4人で暮らしていた時期があって冬二は自分が死んだ後の孫の行く末を心配していたんだと。
冬二評価、またまた上がりましたね。自分だけ靴下買ってるじゃんと前回も突っ込みましたが、いいことにします。

難解な言葉を使わずに風景をうたい、その中に寂しさなども詠いつつそれでも読後に暗い気持ちにさせない冬二の詩。どこか、復刊してくれないかなあーーーー。