ポエカフェ 竹中郁篇

本日は神戸の詩人さん、竹中郁http://d.hatena.ne.jp/mask94421139/20120923/1348380513以前、竹中郁をやったときの記録がこれ

1904年(明治37年)4月1日神戸市兵庫区永沢町の富裕な綿花問屋(当時は別家で澱粉製造業を営む)に生まれる。
父・石坂芳松。母・下村しう。本名は育三郎で二人の兄、三姉妹がいた。
1歳で母の妹くにの嫁ぎ先の竹中亀太郎と養子縁組。
1917年13歳。神戸二中に入学。同級に小磯良平。生涯の友に。

1921年17歳。須磨中にテニスコート付きの家を新築。これって亀太郎さんが新築したんでしょうね。は?テニスコート?桁違いのぼんぼん、嫌になりますねぇ。テニスに夢中。北原白秋に傾倒、詩作を開始。
1922年18歳。竹中郁月刊詩集1「万華鏡」(13篇、4P)発行。これ、どのくらい続いたんでしょうねぇ。
1923年19歳。白秋、山田耕筰主宰「詩と音楽」に詩が掲載。新進11人に選出。これ、他に誰がいたんでしょうねぇ。どうも検索、ヒットしない。
だが白秋に選ばれるなんで凄いねぇ。
それでも竹中郁は美術の道へ進もうとしていた。東京美学校に入学希望するも養父母の反対で私立関西学院英文科へ。絵描きなんて金にならんとか思われてたのか、はたまた。

1924年20歳。神戸二中の先輩、福原清らと同人詩誌「羅針」創刊。自宅を発行所とし「海港詩人倶楽部」と称する。
北川冬彦安西冬衛らの「亜」のグループと交流。
1925年21歳。詩誌「射手」「豹」など創刊。J・コクトオの本邦初訳を発表。
1926年22歳。第一詩集「黄蜂と花粉」(100部)海港詩人倶楽部から自費出版
1927年23歳。小磯良平の東京美学校卒業制作モデルとなる。あの有名なラグビーシャツの絵ですね(彼の休息)
家業を継げと命じられるも半年を東京で下宿。美術学校は断念したが、家業だけは断固拒否の竹中郁
近藤東・春山行夫芥川龍之介堀辰雄と交流。って凄い名前が続々と出てきますな。誰と誰が交流してたのか、こういうのって面白い。誰の影響を誰がうけたのか、どんな影響をうけたのか。
1928年24歳。第二詩集「枝の祝日」(今度は300部!)をまた海港詩人倶楽部から自費出版
欧州留学を許され、小磯良平とパリで落ち合う。金持ちはいろんな国で遊んでいらっしゃいます。イタリア、オランダ、、イギリス、ベルギー、スペイン・・・2年間も遊んでいらっしゃったんですねぇ。
「シネ・ポエム」制作開始。
1931年27歳。能キミと結婚。家業従事の命には従わず。結婚したら心入れ替えて継いでくれるかもと思ったのかもしれませんが
竹中郁の頭の中には一ミクロンも家業を継ぐという選択はなかったんでしょう。
1932年28歳。第三詩集「一匙の雲」これ、雑司ヶ谷でやっていたボン書店発行というのが凄い。この年には第四詩集も。「象牙海岸」(第一書房)刊行。この詩集の中の「ラグビー」がシネポエムのスタイルで斬新さで脚光を浴びる。
モダニズム詩の代表的成果の一つと評価された。
翌年、堀辰雄創刊の詩誌「四季」にも参加。
1936年32歳。実母しう死去。肺結核発症、入院、自宅療養。こんなしんどい時やのに第五詩集がこの年、刊行されている。その名は「署名」(第一書房)しかも森鴎外に傾倒、全作読破って・・・喀血までした人が大丈夫やったんやろか。確かに入院してるときはね、体が元気やと読書ははかどるねんけどね。
竹中郁の子供ってみな、ちょっと面白い名前。長女がまゆ。次女がゆふ。三女がおり。四女ははた。長男は左右平。女の子は二文字ですねぇ。
杉山平一著『戦後関西詩壇回想』(思潮社、2003年2月)には目次に「竹中郁の人柄など」「竹中郁ユマニテ」という章があり、見返しの数枚の写真には竹中郁も写っている写真も掲載されている。
1942年38歳。太平洋戦争期。「中等学生のための朗読詩集」刊行。そしてこの年は杉山平一の結婚式でスピーチしてるんですよ、竹中さんは!その日に日本初の空襲警報がなるという・・・あぁなんてこったい。めでたい日に水さすんじゃねぇよ。
1945年6月朝の空襲にて蔵書4000冊失う。
1946年ぼんぼんの竹中はん、初就職。42歳で神港新聞社入社。京都に来た三好達治と交流。
でも翌年には退社して文筆業に専念するねん。
1948年44歳。児童詩誌を「きりん」と命名、長崎書房から創刊、監修をつとめる。これが後半生の主要な仕事となる。
第七詩集「動物磁気」(尾崎書房)刊行。
1950年「子ども詩の会」が毎月一度開かれ、坂本遼とともに詩の指導を行う。
50代から校歌、社歌の作詞依頼増え、生涯で200篇をこえた。これって1冊にまとめてないのかなあ。1975年には「近鉄バファローズの歌」も作ってるしなあ。近鉄も今はない・・・あぁ哀しい。
1968年64歳。第八詩集「そのほか」刊行。こどもに詩を教えることに力を注いでいた竹中郁はまず、こどもの詩が大事。子供優先。自分のことはそのほかなのだ。
1971年「きりん」220号で終刊。
1979年第九詩集「ポルカマズルカ」最後の詩集刊行。
1982年78歳。脳内出血で死去。

「午前十時の風」
いま
「春」が
垣根に沿って喋言って往った

たった3行やけど春がおしゃれに通り過ぎていきましたねぇ。春はどんな言葉をささやいて往ったのでしょうか。

「子供」
雨があがる。水たまりがのこる。子供は踏まないやうに
海峡を越えてゆく。

竹中郁の詩にはスケールの大きさを感じさせるものがよくある。これもそうで、水たまりが海峡となるこの想像力が素晴らしい。
よく、わざとみずたまりにはまったりするが、海峡を越えると思うとなんだか楽しいではないか。
子供の心を持ち続けた詩人さんではなかろうか。

朗読はしなかったがこれも気になるので。「閲歴」
悲しみは遠い水脈を(みを)になってひろがる。

忘却はたのしい。忘却はたのしい。

この最後の行が気になる。悲しいことはきりのええとこで忘れていいんよということだろうか。

「一本の釘」声高に戦争反対とか叫んでいるのではない、だからこそ余計に考えさせられるものがある。1944年の詩で
10歳の娘が拾ってきた1本の釘。戦時中で1本の釘さえも国に差し出せという時代。
対する太平洋をへだてた敵国は鉄がありあまっている。勝てるわけもない。

机の上の一本の釘

錆びた一本の釘がおまへの心頭を去らぬやうに
この父は切に祈る 祈る

物を粗末にするなと教えられているようにも思う。

竹中郁の詩で一番、強烈な印象を残したのが「書物」空襲で自宅が燃え、4000冊の蔵書を失った竹中郁の心の響きがここにはある。家はみつかる、布団は恵んでもらった、でも不運の書物は帰ってこない・・・
今回もテキストに掲載されていてうれしかった。
最後の行に
そらんじている文句もある

竹中郁がそらんじている詩は、フレーズは何だろう。私ももっと自分の血となり糧となるように詩を、大事な詩を
好きな詩だけでいいから覚えておきたい

「夏の旅」
えんぴつをけずる
えんぴつは山の匂いがする

夏の旅はすこぶる手軽だ
二千円の旅も十円だ

当時は二千円(今の2万円くらいかな)で行けていたであろう夏の旅。鉛筆を思いのままに走らせることで10円でどこへでも
行けるよと。美術の道に進みたがっていた竹中郁らしい詩だ。

私が朗読したのが14番の「足どり」先日の川口古本マーケットで陣取った場所も14番・・・
みしらぬ人と出会ったときのこと

見しらぬ人の
会釈をうけて

二人のあいだを
ここちよい風がふいた

二人は正反対の方向へあるいていった
地球を一廻りして
また出会うつもりの足どりだった

これまたスケールがでかいわぁ。地球を一廻りして・・どんだけ時間かかるねん。
約束もなく、それでもいつか会えるといいよねという素敵な出会い。