本日の詩人は茨木のり子と現代詩のツートップといってもいい詩人の石垣りん。
1920年(大正9)2月21日東京の赤坂生まれ。父は薪炭商。長女。
3歳の時、関東大震災があり、子供をかばい、落ちた梁を背に受けた怪我が元で母すみ(30歳)は翌年死去。
昭和元年(1926)6歳、仲之町尋常小学校に入るも学校が嫌で泣いて困らせる。4月、祖母さく急逝。
1927年7歳の時、父仁が亡き妻の妹きくと再婚。が9歳の時、きくもまた30歳で死去。石垣りんの家族もぐぐっても出てこないなあ。
1930年10歳、父は千葉からすづを迎えて再婚。11歳、13歳の時、三女、四女誕生。
1934年14歳、高等小学校卒業し、「自分を縛るもの(家庭、教育)から解放されたい」と日本興業銀行に事務見習いで就職。今の中学2年だよ。早熟というか自立心旺盛と言おうか。まだまだ遊びたい、親にも甘えたい年頃なのに、そうせざるをえなかった環境で育ってきた彼女にとってそれは究極の選択でもなんでもなかったのかもしれない。
初任給18円、昼食付。ここで広大のあの教授がいらっしゃったら、当時の18円というのは今のいくらですねぇとずばり教えて下さっただろうに。
仕事の合間をぬって「少女画報」(1912年創刊。婦人画報の妹雑誌で1942年廃刊、「少女の友」に統合)「女子文苑」などに投稿。
15歳、弟、利治生まれる。16歳、四女の蔦子が死去。病死なんだろうか、この辺の経緯が全然わからないんだよなあ。
17歳ー父、すづと離婚。と思ったら翌年、このお父さん、隆子と再婚とある・・家庭環境が複雑すぎる・・・
この年、福田正夫の指導下、女性だけの同人誌「断層」創刊。
1941年「女子文苑「」に短編「荷」を発表。「女子文苑」「断層」に合併。この「女子文苑」も同人誌みたいなものだったのだろうか。年譜の謎がどんどん増えていく。太平洋戦争が始まった年でもあった。
1942年入院していた次女の妹さくが死去。父の前妻、すづも死去。
石垣りんの家族って早死にする人が多いんだよねぇ。全然、資料が残ってないのだろうか、ううむ。
1943年「断層」へ短編「幕張行」発表。弟の達雄、出征。召集令状がきたとき、「おめでとうございます」と挨拶(当時はそういう精神状態)注意する叔母に違和感。
1946年、職場の機関誌「行友会誌」「行友ニュース」に随時、詩などを載せるようになる。
1948年 同人詩誌「銀河系」に参加。
1950年職員組合執行部常任委員になる。
詩誌「時間」へ参加するも1年足らずでやめる。
1951年「銀行員の詩集」刊行(選者 壷井繁治、大木惇夫)4篇が収録される。
翌年も「銀行員の詩集」(選者伊藤新吉、野間宏)に4篇が収録。このアンソロジーは1960年まで計10冊刊行された。
1953年祖父、弥八死去。1957年父、仁死去。
1958年椎間板ヘルニアで入院。
1959年、39歳で第一詩集「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」刊行。快気祝いで配る。
1965年同人詩誌「歴程」に参加。そう、あの草野心平のですよ!
1988年まで所属。
1969年、第二詩集「表札など」で第19回H賞。これ、詩の芥川賞的なものですごいんですよ。
1970年50歳にして南雪谷のアパートで一人暮らし。以後30年そこで暮らす。
1971年「現代詩文庫46 石垣りん詩集」で第12回田村俊子賞。
1974年、母隆子死去。翌年、日本興業銀行定年退職。
1979年 第三詩集「略歴」で第4回地球賞。これ、初回の受賞者が衣更着信。第12回は永瀬清子。この年、三女の初江死去。
死去って言葉がこんなにでてくる年譜は初めてじゃないだろうか・・・
1988年弟(長男)達雄死去。
1999年NHK全国学校音楽コンクール課題曲として「この世のなかにある」を作詞。
2000年絶版になってた第1〜第4詩集の再刊始まり詩集としては異例の売れ行きを記録。
2004年12月26日死去。
第1詩集「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」の中の「挨拶」
これだけは日本人として読まねばならないでしょう。
原爆の写真によせて書かれたもの
最後の2行がやりきれない
あなたの如く 私の如く
やすらかに 美しく 油断していた
25万人の命を一瞬に奪った8月6日を忘れぬために 風化させぬために
第1詩集のタイトルにもなった「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」
電子レンジばかり使ってちゃいけませんよと言われてるような。
炊事も政治や経済の勉強も同じように頑張らねば。
毎日毎日、朝昼晩と用意してくれていた母親に感謝しなきゃいかんのだよね。
「この世のなかにある」この詩はもうずばり、最初の一行目
この世のなかにある、たった一つの結び目
この結び目とは何なのか。これを想像していくだけで時計の針はぐんぐん加速していく。
「不出来な絵」 図工が地平線レベルの私にはとっても親しみのわくタイトルである。最後の一連
不出来な私の過去のように
下手ですが精一ぱい
心をこめて描きました
この私の過去とは何をさすのか。銀行員として定年まで働き、詩集もだし、賞もいくつか受賞して成功者のようにも思うが、結婚できなかったことだろうか。
一番好きな「表札」が片道切符であたりました。一番最後にくじをひいたんだよね、今回。まさに残り物になんとやら。
自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる
一連目から強烈です、びしっときます、剛速球遠慮なしです。
最後の一連もいい。
精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。
この「表札」を読むたびに茨木のり子の「倚りかからず」「自分の感受性くらい」を思い出し、逆に茨木のり子の詩を読めば「表札」を連想してしまういまだ半人前のどうにもならない自分がいる。
「貧しい町」時間給のバイトについてしみじみと考えたくなるような詩。
働くって何なのか。
略
私の売り渡した
一日のうち最も良い部分、
生きのいい時間
略
石垣りんはでも負けてはいない。この詩から暗さが漂ってくることはない。淡々とうたっている。無駄に力をいれず、詩を読んだ者がじゃ、自分はどうかいなとかんがえさせられる。そんな詩が多い。
自分のくたぶれた時間を食べて、糧にしているのだ。自分はどうなんだよと自問自答せざるをえない。
「定年」 石垣りんの詩はタイトルも表現もわかりやすくていい。
略
会社の耳には
会社のことばしか通じなかったから
略
この2行に相槌打った人も多いことだろう。もう何もいうまいて。この2行が全てを代弁してくれてるよ。
朗読はされなかったがこの詩も好きである「着物」
犬に着物を着せるのは
よいことではありません
略
そのオカシサの首に鎖をつけて
気どりながら
引かれてゆくのは人間です。
犬に着物を着せるのは悪いことでもないといいながら最後に皮肉たっぷり。
「かなしみ」この詩は体のあちこちにピアスをつけてみるからに痛そうな若者にも是非読んで頂きたいと思う。
65歳の石垣りんが転んで右手首を骨折して書いた詩。
なおっても元のようにはならんといわれ
略
「お父さん
お母さん
ごめんなさい」
二人とも
とっくに死んでいませんが
二人にもらった体です。
いまもわたしは子どもです。
おばあさんではありません。
「やさしさ」
戦争を考えるとき、この詩もまたはずせない。
最後の1連は戦争をする大国のトップにこそ読んでほしい。
大きな国の腕の中で
どうしてこどもは軽いのだろう。
どうしていのちはちいさいのだろう。
さて、来月は尾形亀之助です!
夏葉社から刊行された尾形亀之助の詩集「美しい街」
できればますく堂で・・・お取り置きもします。
持ってこいと言われればポエカフェ当日に持参もしますので、宜しくお願いします(笑)