ポエカフェ丸山薫篇
9月25日本日のターゲットは丸山薫。
1899年大分で生まれた4男坊。父が官吏だったので長崎、丸の内(東京)、韓国{伊藤博文に父が見込まれ行かされたらしい}など転々とし流浪の民の意識芽生える。
父が12歳(1911年)の時、亡くなり、母方の祖父のいる豊橋市へ移る。この祖父が漢学など教養深く、薫に童話、メルヘンなどの素養をめばえさせる。
13歳でロビンソン・クルーソー、南極探検記を愛読。コンラッドなど海洋文学を英書で熟読。米窪太刀雄『海のロマンス』に熱中。海への強いあこがれから船員になろうと決意。http://d.hatena.ne.jp/fuaki/なんと、夏目漱石がこの本を絶賛していたとは。達筆すぎますといいながらも序文を書いているのだ、あの漱石が。
1918年、19歳、母や親戚の反対を押し切り、一浪後に東京高等商船学校に入学。がこの秋に脚気で退学。
1921年(22歳)第三高等学校(現・京大)に移り、内心、三高生のエリート意識に反発を覚える。出欠足らずで落第。三好達治、桑原武夫と同級生になる。梶井基次郎もこの時代から親交を深める三好達治も陸軍士官学校を中退し、同じ挫折組で仲良くなったらしいけどちょっと待ったーー。今の京大やで、先輩たち、もしもし?京大に入っといて挫折かいっ!
1926年(27歳)東京帝国大学(はい、でたー、東大やで)文学部国文科に入学。東京の中野に住む。第九次「新思潮」の同人に。この年、春山行夫編集「詩と詩論」が創刊され、そこにも寄稿。
29歳、前年に見初めた高井三四子と結婚し、大学中退。妻と母の竹子とともに杉並区上沼袋(おお、ポエカフェ、やったことある地域じゃん)に住む。昭和6年からは滝野川に居住。
昭和4年(30歳)伊藤整を中心とした「文芸レビュー」に毎号、小説を寄稿。
この頃、上沼袋の借家(家賃23円ー今の16万5千円くらい)を引き払う。今回の詩人はぼんぼんである。お父様の遺産がどっさりあってんけど底をつきかけていたある日、妻に「もう300万しかないです」といってやむなく引っ越すのであった。もう一度言いますよ、300万しか!ないそうです、ちっ。ま、使い切る前に言うたからよしとしますか。どこぞの啄木みたいに借金しまくるよりは遥かにまし。
この頃、丸山はかなり追い込まれていた。詩の依頼はあっても稿料は殆どなく、謝礼は酒代にもならず(って酒は我慢しろ)移った小さな家も引き払い、妻の実家(愛知県知立)に一時寄寓。が再び、単身上京。妻の親戚の叔父のもとに下宿。
1930年(31歳)津村信夫から手紙を初めてもらい文通が始まる。この頃より馬場の下宿引き払いまた妻の実家へ寄寓。後に末の弟(京都帝大在学中)、妹、母の居た京都に家を借りて住む。この頃が最も厳しい時代って書いてあるのに、散歩がてら、近くの動物園に行くことを日課としていたらしいって、働く気はなかってんね、丸山はん。動物園に行ってもお金は入るどころか、タダじゃなかったと思うんやけど。あの頃は無料やったんかな。
1931年(32歳)5月に月刊誌「セルパン」が第一書房より創刊。そこへ12月より寄稿開始。セルパンとはフランス語で蛇という意味で叡智の象徴らしい。翌年、第一詩集「帆・ランプ・鴎」上梓。柔らかく鮮烈な叙情で多くの賞賛得る。
1933年堀辰雄編集「四季」創刊。(でも2号で休刊しましてん)二篇の詩寄稿。この頃から近くに住んでいた中也、津村信夫、立原道造らと交流。その中でも津村とは一番親密になり、実の弟のようにかわいがる。って羨ましいな、そのエリア!
津村は丸山のことを百貫デブと親しみこめて言うてたんやて。さぁ、奥さんも黙ってないで!奥さんは80貫デブのくせにと強烈なジャブをかましたそうな。翌年刊行した「幼年」で文芸汎論詩集賞受賞。晩年の朔太郎とも親しく交流。
1934年三好達治結婚。その披露宴の席で「四季」発刊の相談受ける。ここで第二次「四季」の計画が進んでゆく。赤字のかさまぬよう、薄い版にしようとか披露宴で何してんのこの人たちは(笑)
でもそのかいあってか以後、10年間、詩壇の主流を担っていく抒情詩誌となっていく。
1935年詩集「鶴の葬式」「幼年」刊行。この頃から詩や散文の依頼増加。詩文壇にゆるがぬ地歩を築きつつあった。
1941年(42歳)詩集「物象詩集」刊行。中央公論社特派員として船員となり、5月から7月に太平洋奔走。
1942年詩集「涙した神」刊行。「日本海洋詩集」を編集し、刊行。
1943年詩集「点鐘なるところ」刊行。
1944年5月戦災こうむり、1947年まで山形の岩根沢に疎開。岩根沢国民学校の代用教員する。この岩根沢に丸山薫記念館がある。昔は教員免許を持っている人が少なく、丸山薫ももっていなくて代用教員だった。いいタイミングで挟んでくれる西原先生のこういうプチ解説がわかりやすくていい。当時の金銭も今でいうといくらですとさっと計算してくれる先生が凄い。そしてそれをすぐ忘れる自分が忌々しい。
それからも詩集の刊行ラッシュ。「北国」「仙境」「青い黒板」「花の芯」を40代のうちに立て続けに上梓。
1948年(49歳)愛知大学講師。おお、遂に丸山薫、職につきましたよ。
この丸山薫というお方は巨漢で、性格もマイペースでおおらかだったんだろうね。このマイペースな夫の縁の下の力持ちとなって支えたのが妻の三四子。彼女の著書が丸山薫本人の本より面白いとNさんがいうのでこれは是非とも読んでみたいなあ「マネキン・ガール 詩人の妻の昭和史」(時事通信社)
1952年詩集「青春不在」刊行。1955年(56歳)山下汽船の好意で貨物船山下丸に便乗し、豪州各港を廻遊。こんときも奥さんは一緒じゃなかったんだろうか。
60歳で愛知大学の非常勤の教授になる。
1962年(63歳)詩集「連れ去られた海」刊行。中日詩人会の会長。
1973年詩画集「蟻のいる顔」刊行。翌年75歳、脳血栓で死去。
あほうどりと言えば谷根千の古書「信天翁」とゴルフのアルバトロスしか思い浮かばない私。海の大好きな丸山薫は海も鳥もよく詩にしていた。
「ランプと信天翁」の2連目がいい。しかしあほうどりくらい何故変換しない、このPC!
信天翁がランプか
ランプが信天翁か
信天翁もしらない
ランプもしらない
「水の精神(こころ)」は一行目でがつんときた。水は自分と置き換えてよむと一層、突き刺さる詩。
水は澄んでゐても 精神ははげしく思ひ惑ってゐる
略
水はどうにもならない感情がある
その感情はわれてゐる 乱れてゐる 希望が失くなつてゐる
略
が言葉はなかなか意味にならない
略
この詩ひとつだけじっくり討論したくなる、そんな心を揺さぶってくる詩。
西原先生が朗読されたのが一番好きだと言われる「学校遠望」
最後の2行がじわりじわり切なさと哀愁を引き連れてくる
彼の瞳に 僕のゐる所は映らないのだろうか
ああ 僕からはこんなにはっきり見えるのに
「詩人の言葉」には亡き中原中也がでてくる
海には人魚はいない、あれは波だという中也。その言葉を胸に丸山薫は
最後の3行で
波という言葉は人魚になった
人魚という言葉は
波になった
と締めくくる。
今回のテキストの中で一番好きな詩が「ほんのすこしの言葉で」
ほんのすこしの言葉で
子供たちの掌の中にも在るほどの
ほんのすこしの単純な言葉で
ただそれを工夫して編むことで
詩が捕らえられそうに思う
略
最初の1連だけでも素敵だ。
今回、特に素敵だったのがポエトリーおやつ!ベスト10、いやベスト5に入るよ、あれは。毎回、あれでいいです、私。