ポエカフェ竹久夢二篇

さて、詩よりも美人画で有名な、竹久夢二、2回目の登場である。
本日でポエカフェは第97回。さぁ、100回までカウントダウンだな。
月に一度のペースで100回って恐ろしい。すごすぎる。

夢二は明治17年(1884)9月16日生まれ。岡山県邑久郡(おくぐん)本庄村大字本庄119番邸(なんて覚えやすい、119番なんて!)に父、菊蔵(32歳)、母(28歳)也須能の次男に生まれる。十かは本来造り酒屋だったが、夢二が生まれた頃には取次販売店を行っていた。

明治14年生まれの長男(加津田)3歳で死亡し、実質の長男。姉は7歳上の松香。妹栄は7歳下。
本名は夢二じゃないんだな、ふっふっふ。茂次郎(もじろう)君なのだよ。とっさにしまじろうが浮かんできた、許して夢二はん。茂次郎から夢二とは、化けたな・・・

明治28年邑久高等小学校に入学。ここで夢二は最初で最後の絵の先生ともいうべき、服部杢三郎先生に出逢う。教科書そっちのけで屋外に写生などをよくやり、好きに描かせてくれた、服部先生はお手本通りに描けとかうるさいこと言わない当時では画期的な先生。夢二の絵にも全部はなまるをつけてくれていたらしい。
この頃に姉が結婚(はやっ)。家の柱に竹久松香と夢二が書いた。これが夢二の記念すべき最初の筆跡だそうな。この落書、ぶれみあむ・・・
http://www.okayamania.com/spot/chomei/yumeji.htm ここをみると夢二の生家は天井が低いそうな。おいら、まるで問題ないさっ。あの夢二の落書とかもまだ残ってそうだね、見たいぞ。

明治32年15歳ー叔父の竹久才五郎を頼って神戸中学に入学。だが8か月で中退。この中退も父の放蕩が原因かも。姉の離婚は父の放蕩がきこえたためらしい。この年の12月に一家で福岡県遠賀郡八幡村大字枝光に転居。
http://tom3.me/okayama/yumeji.php

明治34年17歳ー家出して上京。18歳ー早稲田実業学校に入学。
明治37年19歳ーこの頃から、雑司ヶ谷鬼子母神脇、農家離れに住まう。
岡栄次郎、荒畑寒村と自炊生活を翌年春まで。

明治38年20歳ー「中学世界」に応募したコマ絵(本文とは関係ない小さな絵)「筒井筒」が第一賞入選。初めて夢二の筆名を用いる。早稲田実業専攻科中退。

明治40年23歳、岸たまきと結婚。たまきは絵葉書屋をしていて、そこで知り合う。たまきをモデルに「夢二式美人」誕生。平民新聞に幽冥路の筆名を用い、コマ絵や川柳を発表。翌年、長男虹之助誕生。
水彩画「BROKEN MILL AND BROKEN HEART」を描き、近所に住んでいた大下藤三郎(「みづゑ」刊行)を訪れ、岡田三郎助の助言を受ける。岡田は女性像を得意としていて、夢二に美術学校へ行くより、個人でもっと勉強しろと助言する。http://www.nagaragawagarou.com/visualmuseum/m-yumeji.html
http://tom3.me/okayama/yumeji.php

明治42年25歳ーたまきと戸籍上の離婚。最初の著作「夢二画集 春の巻」刊行。離婚と思ったら翌年、再びたまきと同居。
エハガキ「月刊夢二カード」第一集刊行。たまきと銚子町海鹿島に滞在。お島(長谷川かた)と出逢う。このお島は宵待草のあの少女ですねぇ。
童話集「さよなら」刊行(イギリスの「マザーグース」を日本語で初めて紹介。)

明治44年27歳ー次男不二彦誕生。翌年、河合酔茗主宰「少女」誌上にさみせんぐさの筆名で「宵待草」の原詩が発表。
京都岡崎公園京都府立図書館で「第1回夢二作品展覧会」開催。
大正2年29歳ー詩画集「どんたく」刊行。「宵待草」が現在の詩形で発表。西條八十が2番をつけたしたそうな。短すぎるというて、付け足されるほど人気があってんな。でも付け足すんなら夢二に付け足してほしかったような、ちょっと複雑な・・・

大正3年30歳ー岡山で画会。日本橋区呉服町に「港屋」開店。でまた運命の人と会うてしまいます。この頃、笠井彦乃と出会う。
大正5年32歳ー三男草一誕生。京都へ移ります。翌年、彦乃が京都へ来ます。何故かなんて聞かないように・・・
大正7年34歳ー画壇に認めてもらえなかった夢二だから、画廊ではなく、図書館などで個展をしていたのでしょうか。京都府立図書館で「竹久夢二抒情画展覧会」。神戸でも神戸市下山手通キリスト教青年会館で開催。九州への旅行先で彦乃病む。夢二、東京へ戻り、菊富士ホテルに移る。
大正8年35歳ー詩集「夢のふるさと」刊行。三越で「女と子供によする展覧会」開催。お葉がモデルとして菊富士ホテルへ。
大正9年36歳ー彦乃、享年24歳にて永眠。彦乃の人生は幸福だったのでしょうか。でもそれを決めるのは彦乃自身。

大正10年、渋谷町宇田川にお葉と世帯をもつ。ん?たまきはどないしてん??詩集「青い小径」刊行。「青い夜道」は田中冬二。
大正12年39歳ー恩地孝四郎らと「どんたく図案社」結成を発表。だが約4か月後の9月1日の関東大震災にて潰滅。
大正15年42歳「童話集 凧」刊行
昭和3年44歳の時、母逝去(享年72歳)
昭和4年45歳 群馬の高崎市吉井勇らと文芸大講演会。なんだこれ、気になる講演会だな。
昭和5年銀座の資生堂で「雛によする展覧会」開催。翌年、父79歳で逝去。新宿紀伊国屋書店とか新宿三越とかあちこちで展覧会をするっちゃ。アメリカのカーメルのセブンアーツギャラリーでも展覧会開催。
昭和8年 ベルリンのイッテン画塾で日本画講習会開く。
昭和9年病悪化。「ありがとう」の言葉残し逝去。雑司ヶ谷に眠る夢二。

まずは「宵待草」からいきますかね。夢二で一番有名な詩歌といえばこれでしょうね。
待てどくらせどこぬひとを
宵町草のやるせなさ

もうこの最初の2行だけで上手い。女心を詠ませたら夢二にかなうものはいないのではというくらい、女性の立場にたったものが
多いし、切ないし、上手い。なんでこんな女心、わかんの?と。
でもこれねぇ、たまきと銚子に来てるときに出逢ったお島のことやねん。どういうこと?とたまきは何度、ぶちぎれたことでしょう。
女心と秋の空というが夢二と秋の空と私は言いたい・・・いや夢二心と夏の空か。
たまき、お島、彦乃、お葉。何人もの女性と出会ってきたが、でも夢二にしたらそのときどきで一人だけを愛していたのかもしれない。

「越し方」
不幸ではあった。
だが幸福ではなかったと
どうして言へよう。
誰に言へよう。

短い言葉でずばり格言のような。不幸かどうかはその人が決めればいい。決めるのは周囲でもマスコミでもない。

夢二といえば宵町草より好きなのがこれ。偶然にも朗読があたってしまう・・・
「ゆく水」
ゆく水のこころ
ひとはしらなく
わがこゝろ
きみしらなくに。

いろんなことを考えられそうな余地のあるこの短文の詩がとてもいい。
あなたのことをこんなに想ってるのに・・・と言いたいんでしょ、夢二はん。あんたにそう言いたい人が近くにいてたと
思うでと言いたいのだが、それくらい、上手いのだよ。代弁してるというか。自分の行いは棚にあげてね、うますぎる。

「あなたの心」
あなたの心は
鳥のやう

私の傍へ
おくために
銀の小籠に
入れませう。

たまきもきっと鎖でもつけて縛っておきたかったでしょう・・・でもたまきはプロデューサーの才能もあったのではという意見もあった。自分の夫に彦乃さんをくださいなんて彦乃の父に頼むたまき。彦乃と出会ってから絵のスランプを脱した夢二の為に。
あぁ、これもまた一つの愛情表現か。でも夢二もわかってるでしょう、人の心はしばっておけないものだと。

朗読はされなかったが「手紙」も気になる詩
やぶかずに
しまっておく手紙。

だがやぶきもせず
すてもできない
手紙はかなしい。

夢二、この詩はあんたに言いたい「紅茸」
美しいものは
見てゐるものです。

採って
食べてはいけません。
美しいものは
ただ眺めませう。

でも人には欲求というものがあり、美しいからこそほしくなる・・・

本日のおやつは残念なことに和菓子であったよ・・・白あんと聞いた時点で交流戦もおやつも終わったと思いました。
しかも帰り道に派手に転んでしまったよ・・・はぁ、夢二め(八つ当たり)