ポエカフェ金子光晴篇

体もPCも壊れて大変おそーーくなりました。
1895年(明治28年)愛知県海部郡津島町で大鹿和吉・りょうの三男としてクリスマスに生まれた光晴は自分の誕生を「鬼の児の誕生」とみなした。がかわいらしく女装させられることが多かった。
2歳ーそのかわいさを見初めた17歳の須美と土建業(清水組)に携わる名古屋の金子荘太郎夫妻の養子となる。っておいおいと調べてみると、実家は酒屋を営んでいたが濃尾地震で倒産。その影響もあったのだろう。
後に京都に移転。京都時代は余りに早い欲情の開花に自分は異常なのではと悩む。繊細な神経の持ち主だったんだろうな。
10歳になると今度は東京へお引越し。最後の浮世絵師、明治の広重といわれた小林清親に初めて日本画を習う。荘太郎は金持ちで遊び人だったらしく、光晴も養子になってからはぼんぼんだったんだな。
12歳で急に本にとりつかれ図書館通い。漢学、老荘、江戸戯作、自然主義文学、ワイルドなど読破。16,17歳の頃は文学に熱中するとともに寄席や遊郭に通い、30男のような生活・・・金持ちの子じゃないとできひんことです。
でもそんな放蕩生活に疲れやがて死の予感って・・早熟すぎたってことでしょうかね。人生を急ぎすぎているような気もします。
18歳から21歳の頃、書くのも面倒なくらいあちこちの学校に入ってはやめていく光晴。親からどんだけ金とれるかなあと入退学を繰り返しておったそうな。賢いねんよ、この人。親はこんな光晴をどない思ってたんやろうな。
肺尖カタルで休学してた頃もあって、この時に保泉兄弟に白秋風の象徴・耽美詩を教わる。で21歳の頃から同人誌などでもう詩を発表してんねん。
1917年(大正2年)22歳ー養父逝去。神楽坂に借家住まい。養母と遺産の20万円(今の数億円。0何個やねん)を折半。ここまで読んでえ?この遺産大事にしたんじゃないの?ラッキーやんあんたと次読んだら、ボードレールなどにのめりこみながら放蕩生活って・・・ふぅあかんわ。
でもこの頃に光晴は私が一番好きな「反対」などを書いてる。
目的もなく岐阜、関西、長崎に旅行。
突っ込みどころの多い詩人ってぐぐっても毎回一つは面白い参考ブログとかが見つかる。今回はこれhttp://sky.geocities.jp/ppp_dot/index1-kaneko1.html遺産で一山あてようとしたことなんかも書いてある。堅実に生きるということをしなかったのね、光晴さん。そりゃね、数億円あったってすぐなくなるわ。私には想像もつかん0の数ですけど(笑)
24歳ー本名の金子保和名義で詩集「赤土の家」刊行。ただ刊行したんちゃいまっせ。神田の牛肉店で刊行記念会と渡欧送別会までしてもらうというぼっちゃんなり。美術商の鈴木幸次郎に連れられ初の外遊をして26歳の時、帰国。大正11年にはさらに贅沢なことしてはります。富田砕花の世話で京都の等持院の茶室を借り、「こがね虫」推敲作業。え?もう一度いうてください!この「こがね虫」は吉田一穂が高く評価。
大正12年関東大震災。川田家の庭の空き地に200人ばかりもの人々を避難させた行動派の光晴。1924年29歳の光晴は女学生の森三千代の訪問を受け二度目の訪問で求婚する。吉田一穂の恋人だった三千代は光晴を選ぶ。それは条件婚で互いに好きな人ができたらさくっと別れるというものだった。
33歳ー一人息子の乾(けん)を森の実家に預けて夫婦で5年ものアジア、欧州への旅に出る。三千代が不倫していて、さっきの条件通り、別れたらええやんと思ってたら、光晴、やっぱ、別れるのは嫌やってんね・・・夫婦で海外逃亡かい。三千代もよく海外へ行くことを決意したなあ。遺産があるっていうても親戚にむしりとられたり、放蕩生活で使い果たしてたからね。ずっと一緒に旅行したのかと思いきや、二人は別行動。三千代は親から一人で帰ってこいと親から帰国代をもらうも光晴が使ってしまい、光晴後悔航海の旅。この極貧の旅の間、光晴は洋画を描いてしのいでいたというから天は二物を与えていたのだねぇ。37歳、帰国。世の中の底辺から社会を見ていた光晴は人間、時代、国家権力への批判精神をつかむ。
後に、実妹が設立したモンココ化粧品本舗の広告担当として参加し活躍。
42歳、吉祥寺に転居。時は1937年。非協力、反戦の詩を時には偽装してでも書き綴るが、次第に危険視、敬遠されていく。
1943年、戦争より詩稿を守るため長崎と北海道の詩友にノートの写しを依頼。翌年、戦争への絶望、嘆き、憤怒、そして長男を徴兵から免れさせたいと山中湖畔に家族で隠棲。1945年終戦と同時に日本人が民主主義者に一変していくのに深い懐疑抱く。翌年、吉祥寺へ戻る。
1957年自叙伝を刊行した頃、ニヒリズムに陥り、大河内玲子との恋愛に傾斜。貧乏旅行する前は三千代がもてまくり、帰国してからは形勢逆転。この頃、三千代はリューマチで伏せていた。
69歳で孫の若葉(光晴命名)誕生、溺愛。もっと早く孫ができていたらよかったね。この光晴おじいちゃん、孫への溺愛もはんぱない。詩集まで作るんだから(若葉のうた)
離婚と入籍を繰り返すも三千代は最後は光晴の妻であった。1975年光晴、気管支喘息で急逝。無宗教、無戒名。

光晴の詩で最初に知ったのが「反対」でこれが一番好きだ。

僕は信じる。反対こそ、人生で唯一つ立派なことだと。

イエスマンの私にはこの1行だけでも十分にとどめを刺されたようなもので強烈な印象を残した。

自分が引いたのが「鬼の児放浪」
自分を鬼の児と、誕生そのものに違和感を抱く光晴。
生まれたことに違和感を抱く詩人なんて初めてだと思いつつ、最後の
1行が意味深だ。

「鬼の児は俺ぢやない
 おまへたちだぞ」

「もう一篇の詩」
これ、是非とも小学校でとりあげてほしいね。最初の一連は傑作です。

恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。

詩でうんこなんて単語、そうそうおめにかからへんけど、これはずばりです。谷川俊太郎とかね、少年の詩ならともかく。難解な言葉でひねくりまわす詩より、私はこういう詩、好きです。

「タマ」
タマは 銃口をとび出すと
すぐ、小鳩になつて羽ばたく。

なんとも皮肉じゃないか。平和の象徴の鳩が銃弾とは。
  
「燈台」は当時の天皇制を偽装しながら批判するという荒業の詩だ。

そらにさからふものへの
刑罰だ。

自分の心に正直だった光晴は自分の心を偽らなかったのがすごい。