ポエカフェ第103回 高村光太郎篇

1883年3月13日東京都下谷区西町で誕生。父は木彫師の高村光雲
娘二人は早世。のち弟妹が生まれる。光雲は木彫の孤塁を守り生活は厳しかった。
光太郎、8歳の頃、父が帝室技芸員拝命。東京美術学校(1887年東京府に設立された官立唯一の美術専門学校)教授に。

1890年に,皇室による日本美術,工芸の保護奨励を目的として定められた「帝室技芸員制度」により任命された美術家。年金が給与され,制作を下命されることもあり,技術に関する諮問を受けることなどが定められた。人格,技量ともにすぐれた者が任命され,美術家最高の栄誉と権威を示した。 1944年までに絵画 45名,彫刻7名,工芸 24名,建築2名,写真1名,計 79名が任命されたが,第2次世界大戦後この制度は廃止された。
(ブリタニカ国際大百科事典小項目事典引用)とあり、横山大観梅原龍三郎、藤島武治、上松松園なども任命されていた。

明治30年(1897)14歳、東京美術学校彫刻科入学。古典、漢詩、詩書を耽読。父は職人で息子に「職人に学問なんかいらねぇ」と言うておったそうな。
明治33年(1900)17歳、5月彫塑会に初彫刻作品(塑像)を出品。俳句を新聞雑誌に投稿。次第に短歌に惹かれ、与謝野鉄幹の新詩社に加入。10月「明星」に短歌発表。
明治34年18歳、島崎藤村森鴎外の訳文に傾倒。
明治35年19歳彫刻科を卒業、研究科にのこる。
明治37年21歳 ロダンに激しい衝撃。翌年、洋画科へ再入学。
明治39年23歳 ニューヨークで彫刻修行。美術学校に通う。
明治40年24歳 「明星」に詩を始めて発表。ニューヨーク美術学校の特別賞を受け、特待生に。ロンドンの画学校に入り、バーナード・リーチを知る。
25歳の時、パリに行き、ヴェルレーヌボードレールに魅了される。
明治42年26歳 パリより帰国。彫刻、絵画制作をしながら、絵画論、短歌、評論、翻訳など次々に発表。その一方、ぴっぽさんが愛してやまない「パンの会」の狂騒に巻き込まれていく光太郎・・・
明治44年28歳 旧態依然とした美術界に強い憤り。発表の場のない彫刻より洋画に関心がゆく。
5月、酪農で生活をたてようと北海道月寒(札幌市)への移住を計画するも果たせず。いきなり酪農??と思いつつ、光太郎は色々、考えていたんでしょうねぇ。冬の大好きな光太郎、北海道に目をつけるとはさすが、私はありえん。

油絵を志して上京していた3つ下の長沼智恵子を知る。智恵子は平塚雷鳥がつくった雑誌「青鞜」の創刊号の表紙絵などを描いていた。
詩作への思い熱くなり、「スバル」などに詩を発表。
彫刻への反抗期だったのか。彫刻を愛するがゆえ、彫刻界にやり場のない怒りを抱えていたのか。
大正元年(1912)29歳、6月駒込林町にアトリエ完成。
夏、犬吠岬へ写生旅行の折、偶然智恵子と出逢う。これ、智恵子が妹らと追っかけていったという説があります・・・

大正3年31歳 第一詩集「道程」刊行。抒情詩社より自費出版。この年、智恵子と結婚、同棲する。入籍をしてなくて、新聞などに騒がれたそうな。
光太郎はもう有名人やったということかね。光雲の息子として彫刻家として有名だったんかな。
窮乏の中、彫刻制作続ける。
大正4年32歳 彫刻に専念。翌年「ロダンの言葉」を刊行。この頃より、智恵子の健康優れず、度々、故郷の福島に帰る。
大正10年38歳、ヴェルハーラン詩集「明るい時」芸術社より刊行。11月「明星」復刊。これを機に、次々と長詩を発表。1925年頃より、草野心平宮沢賢治中原中也など若い詩人たちと交流。
昭和4年46歳、改造社現代日本文学全集、新潮版現代詩人全集に作品収録。智恵子の実家破産、一家離散。智恵子の健康状態悪化。
昭和6年47歳 時事新報の依頼で三陸地方旅行。その留守中より、智恵子精神異常、統合失調症に。一緒に連れていくわけにはいかんかったんかなあ。
昭和7年49歳 智恵子、自宅画室で自殺未遂。光太郎は全てをなげうって智恵子の回復につくす。東京には空がないと嘆いていた智恵子にとって、日々の生活そのものがしんどかったのかもしれない。智恵子と光太郎が東京じゃなくてもっと自然のある所で生活していたらとふと思う。
昭和8年50歳 智恵子と入籍。自分がいなくなったとき守るものがないと入籍したらしいが、この時、初めて智恵子の年齢を知ったそうな。療養に東北温泉めぐりするも智恵子の分裂症、さらに悪化。
昭和9年51歳 父、光雲没。智恵子は九十九里海岸へ転地療養。
昭和11年53歳 智恵子は紙の切り絵を作り始める。広告で作っていたらしいがうまくいかず折紙にしたらしい。その数、1000枚以上というから凄いな。
昭和13年55歳。智恵子52歳、肺結核で死亡。
昭和16年57歳 第二詩集「智恵子抄」刊行。戦局に入り、人間と美、文化を守りたいと思いながらも戦意称揚のための戦争賛美詩を発表。生活の為にやむをえなかったのだろうか。光太郎はどんな思いを抱えて書いていたのだろうか。
昭和17年詩集「大いなる日に」刊行。
昭和18年59歳 「をじさんの詩」翌年、詩集「記録」刊行。
昭和20年62歳 4月の空襲でアトリエ消失。多くの彫刻、デッサンが灰に。戦争は先人の作品も無に帰す。
5月、度々、誘われていた岩手県花巻町の賢治の弟、宮沢清六方(宮沢賢治の実家)に疎開。8月、ここも戦災に。終戦後の10月。花巻市郊外、太田村山口に簡素で小さな小屋を建て農耕自炊の独居生活を7年送る。
彫刻はできへんかったが多くの詩、書の作品を生み出す。
この小屋での生活が描かれた「山荘の高村光太郎」(佐藤勝治、現代新書)は光太郎のひととなりがよくわかり、とても興味深く読んだ。
いつの場合も礼儀正しかったとか、作者がお米を沢山わけようとしていたら、僕はこれだけでいいですと遠慮したとか、光太郎、ええ人やってんなということがこれを読むとよくわかる。
学校の先生を相手に講演したときの言葉もいい
「どこの国の人にも懐かしがられる国となれ」今の日本はどうでしょうか。今の政治はそう思ってもらえるような政治でしょうか・・・
この本、あちこち引用したいんだけど特に面白かった発言がこれ。
作者に後世に残る詩人はと聞かれ「僕と宮沢賢治だな」と答える光太郎。
宮沢賢治とよく間違われ困惑もしていたらしい。
どこか復刊しないかなあ、文庫でええけん。

昭和22年64歳 戦時の自己をみつめ生涯を省みた詩群「暗愚小伝」発表。
村人や子供たちとも親しく交流をもつ。
昭和25年67歳 戦後に書かれた詩を収録した詩集「典型」刊行。第2回読売文学賞
昭和27年69歳、青森県より十和田湖畔の記念碑の作成を委嘱され、裸婦像制作することに。これを機に東京中野区のアトリエに転居。翌年完成。
昭和31年 自宅アトリエにて肺結核にて73歳にて没。
智恵子と同じ病気というのが・・・なんともいえない。

冬が大の苦手な私が冬の詩を引き当ててしまうという・・・「冬が来た」

きつぱりと冬が来た

冬よ
僕に来い、僕に来い、
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

刃物のやうな冬が来た

光太郎は冬大好き。夏は暑くて動けんかったそうな。
木を削るのも冬の方がやりやすいのではという意見ありました。

私が書くなら

やっぱり今年も冬がきた
冬よ
来るな、私のとこには来るな
寒さは僕を凍らせてしまう
僕は夏の力、夏は僕の餌食だ
となります。最後の刃物のやうなという表現は素敵ですねぇ。
私にもずとんときました。

「道程」この詩、ほんまはちょうーー長いらしいねん。1914年3月「美の廃墟」初出のものをテキストの短いヴァージョンとは別にして今回、配ってくれました。

皆さんはどっちが好きでしょうね。

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る

常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため

この2行は何度読んでもいいな。ただ、父の世話になりっぱなしだった光太郎の前に道があるんだよね、まだ。前はないと言いたかった光太郎。
何をやるにしても遠い道のりがあって簡単ではない。

朗読はされなかったが「無いからいい」

生きよ、生きよ、生き抜いて死ね。
そのさきは無い、無いからいい。

2行だけのこの詩もいいな。光太郎は生き抜いただろうか。光太郎は生き抜いただろうけど智恵子は生き抜いただろうか。そんなことを思いながら、無いからいいのか、ううん。

「ぼろぼろな駝鳥」
何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では
脚が大股過ぎるぢゃないか。

これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
人間よ、もう止せ、こんな事は。

動物園で動物たちを面白がってみている自分たちにこれでいいの?とつきつけられているようだ。動物たちにとってほんとにええんやろかと。

「人に」
いやなんです
あなたのいつてしまふのがーー

ーーそれでも恋とはちがひます

ええと、これが恋じゃなかったら何やねん。あ、愛か・・・
と思わず突っ込みたくなる。いやいや素直ないい詩なんよ・・・

「人生遠視」
足もとから鳥がたつ
自分の妻が狂気する
自分の着物がぼろになる
照尺距離三千メートル
ああこの鉄砲は長すぎる

何の距離なのか。この鉄砲とは何をさすのか。距離が人生だとしたら、鉄砲は何だろう。先の見えない智恵子の病状。