ポエカフェ原民喜編

今月は原民喜。そう広島出身の詩人であり作家である。
明治38年(1905)11月15日5女7男の五男として現在の中区幟町で生まれる。昔は大家族というが12人は流石に凄い。(長男、次男は早世)
この一家だけで野球チームが作れるじゃないか。
生家は陸海軍、官庁御用達の縫製業を営む商店で軍服やテントなどの製造で発展し、裕福な家庭。
7歳、小学校に入学。学校だよりに二度、作文が掲載される。弟の六郎死去。
大正6年(1917)12歳ー父信吉、胃癌で51歳で死去。深い喪失感。家族や従業員との間の関係に微妙な変化を感じて以降、無邪気さを失い、「死の問題」を抱え、内向的で無口になっていく。
次兄の守夫と原稿綴じの家庭内同人誌「ポギー」を作り、これが12年間も続けたというのから凄い。
この兄が民喜を文学への道へと誘っていく。
13歳で広島高等師範学校付属中学校(現・広島大学付属中学校)を落ち、大きなショックを受ける。母親代わりで最も慕っていた姉のツル死去(21歳)ツルから聖書と神への信仰の教えを乞い、衝撃を受ける。
14歳ーこの頃既に、小説家になることしか頭になかった民喜。国語、作文の才能は傑出。「絵そら琴をひく人」という筆名で小説を発表。
この後、4年間、学内で誰も民喜の声を聴いたものはなかったというくらい無口だった民喜。誰も民喜の心を開かせるような存在が学内にいなかったということだろうか。
15歳 「楓」「キリスト」などを「ポギー」に発表。
18歳 広島高等師範学校付属中学校4年修了。大学予科の受験資格が与えられたので5年に進級後は殆ど登校せず、文学に熱中。同人誌「少年詩人」に参加。同人に熊平武二、末田信夫(生涯の友となる長光太)銭村五郎らがいた。熊平は後に小田原の北原白秋を訪ね、詩稿を読んでもらったというから
驚きである。
19歳ー慶應義塾大学文学部予科に入学。同期に山本健吉瀧口修造、北原武夫らがいたというから何とも豪華な文学世代だ。クラスの自己紹介で「私はコスモポリタンです」といい、読んでる私を唖然とさせる。
20歳 トルストイフロイト萩原朔太郎斉藤茂吉辻潤などに耽溺。
ダダイズムに傾斜し糸川旅夫のペンネームで芸備日日新聞にダダ風の詩を発表。21歳ーなんとなんと英国帰りの西脇順三郎が文学部教授になりクラス担任にってポエカフェ的に凄すぎる芸能ニュースでありんす。
同人誌「春鶯囀」創刊ってこれどない読むねん!これ検索するとまずお酒がヒットするという・・・しゅんのうでんって読むらしいねんけど、原家にもないこれが4冊と「少年詩人」全12冊が北海道立文学館に寄贈されてるらしいって遠いやんか!
というのも長光太が帯広で死去してるんやね。これは広島でも見られるようにしてほしいわ!
この難解(?なお名前の同人誌「春鶯囀」には熊平清一、熊平武二、山本健吉らがいた。熊平武二、銭村五郎、長光太らと原稿綴じの同人誌「四五人会雑誌」を創刊。これだけでは作り足らないのか、次兄守夫と原稿綴じの同人誌「沈丁花」「霹靂」を作る。もう難しい漢字ばっかでええ勉強になるわ(笑)でも難解な漢字ってどこかに答えが隠れていたりすんねんよなあ。
マルクス主義文献を通じ、左翼運動にも関心持つ。
この大学生の頃の民喜は活発なのだ。俳句、随筆、小説、雑文、短編小説と色々なものを同人誌に書き、長髪にして外国煙草を吸ったり、「感覚派宣言」を書いたポスターをいたずらで大学掲示板に貼ったりと友人や社会と融合し始める。
いたずらにしては格好いい名前の歩スターやな・・
そんな明るくなりつつある一面を見せつつ、吃音気味で電車や自動車の音に引き込まれるような恐怖を感じるなど神経質な面は変わっていなかった。酒を飲むと饒舌になり、自室の窓へ電柱から不法侵入したそうな。
体操は苦手やったらしいけど木登りは得意やったんか、民喜はん。
24歳ー慶應義塾大学文学部英文科入学。左翼運動に一時参加するも組織の衰弱化などで自然に離れる。酒やダンスにものめりこむ。あの無口な民喜さんがダンス!シャルウィーダンス??(笑)昼夜逆転で読書、創作に耽り、学部進級が2年遅れる。金持ちのぼんぼんじゃなかったら、そんなんすぐ退学やったと思うで。
27歳で卒業しダンス教習所の受付の仕事をするっていうから、あぁ、人生何があるかわかりまへんわ。横浜の身請けした女性と同居するも半月で逃げられ、カルモチン自殺を図る。カルモチンで自殺を完遂させたのが金子みすゞ。暮れ頃、長光太と明治神宮外苑裏のアパートに移る。この時期、結婚せにゃ、仕送りは中止や!と実家から迫られるって、結婚してもまだ仕送りしてやるんかい。
28歳で文芸評論家の佐々木基一の姉である永井貞恵と見合い結婚。
この貞恵がまさに民喜と正反対の性格で民喜が月なら太陽みたいな人で献身的に支え続ける。この頃から宮沢賢治に傾倒。
29歳ー昼夜逆転の生活を不審に思われ、妻とともに特高に検挙される・・・って奥さんも逆転しとったらあかんやん。一晩で釈放されるも東京嫌やと思ったんでしょうな、千葉の登戸町に転居。
昭和10年30歳ー同人誌「ヘリコーン」などに掲載した掌編をまとめコント短篇集「焔」を自費出版。文芸誌などに自費で広告をうち、内田百輭河上徹太郎など文壇関係者に献本するも反響、殆どなし。
夫婦で俳句を熱心に書き、句誌「草茎」に発表って奥さんも文才あったんやね。民喜の句は特異な作風で注目集め、存在感増していく。
31歳ー母ムメ62歳で死去。この年より、「三田文学」を中心に雑誌への発表が続く。千葉から月に一度状況し、三田文学編集部や坪田譲二、伊藤整らへの訪問を続ける。上京する朝になると嘔吐するほど緊張し、夫婦で訪問しても営業するのは常に妻の貞恵で後ろで一言もしゃべらずにその営業を見守るのが民喜。ダンスをしてた頃のあの積極性はどうした!
34歳(1939年)、縁の下の力持ちの妻が結核を発病。5年の闘病生活。この年、第二次世界大戦勃発。
36歳ーリルケ「マルテの手記」に非常に感銘受ける。37歳ー船橋市船橋中学の嘱託英語講師になる。貞恵の病院へ見舞いに行くときは嬉しそうで、病院へ行ってもやはり寡黙な民喜なのである。
39歳ー貞恵の弟、基一が治安維持法違反容疑で検挙。弟の救出の為、貞恵、身内に連絡などを頼む。それの疲労も重なってであろう、病状悪化。
9月28日、貞恵33歳の若さでこの世を去る。亡き妻に語りかけるよう、詩や手記を書き続ける民喜。
昭和20年民喜40歳。何故だ、なぜ、爆心地に近い幟町(長兄信嗣宅)なんかに疎開を・・・と思ってしまう。幟町なんかもう、広島駅の近くじゃんか。8月6日原子爆弾被爆。父が建てた頑丈な家の二階にいたため、周囲の家は全壊してたのになんとか一命とりとめる。被災時のことを克明に記した手帳をもとに小説「夏の花」を執筆。
昭和21年上京。長光太夫妻宅に寄寓。「三田文学」の編集に携わる。
この頃、堀辰雄に注目され始める。栄養失調、体調悪化で164センチなのに体重34キロまで落ちる。
42歳(昭和22年)長家の夫婦仲が悪くなり、追い出される。中野区のアパートに転居するも前の住人が荷物をそのままにしていて時折、訪ねてくるというなんて落ち着かない可哀想な民喜!
43歳ー神保町の能楽書林(丸岡明の自宅であり、三田文学発行所)に下宿。「夏の花」で第1回水上瀧太郎賞受賞。6月中旬、慶応大学を卒業し評論家になったばかりの遠藤周作と出会い、親しくなる。酔うとお父さん、むすこと言い合う程に仲良くなる。
44歳、まさかの失恋。ここで結婚してたら、もうちょっと生きてくれてたかもなあ。
45歳ー吉祥寺に転居。45歳の時、吉祥寺〜西荻間の線路に横たわり鉄道自殺。近親者17人にあてた遺書が机上にあり、押入れには遺品と遺書2通があった。
8月6日と8月9日は忘れてはいけない、知っとかんといけん。広島の人だけじゃない、世界の誰もが。
昭和20年の俳句

日の暑さ死臭に満てる百日紅

このポエカフェで原民喜をやるとはまだ知らない数週間前、ちょっと詩をセレクトしていて、誰かの編集のオムニバス詩集本で偶然この詩を見つけた。
今年、広島でポエトリー暑中見舞いもあった。サウダージブックスから原民喜「幼年画」が刊行され、岩波文庫で「原民喜全詩集」も出た。
そして戦後70周年。

「原爆小景」より
『コレガ人間ナノデス』

コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨張シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
 オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス

この詩がなぜこうまでカタカナを使っているのか。ひらがなで書けなかった。カタカナでしか書けなかった心中やいかに。

「永遠のみどり」

ヒロシマのデルタに
若葉うづまけ

死と焔の記憶に
よき祈よ こもれ

とはのみどりを
とはのみどりを

ヒロシマのデルタに
青葉したたれ


原爆文学だけではない。俳句では明るめのものもある

輝ける向日葵の路みつけたり

囀りに何かうれしき想ひあり


今の教科書に原民喜は載っているだろうか。はだしのゲンは図書室で読めるだろうか。どうして人類は戦争をする?どうして殺しあわないといかんの?いろんなことを考えさせられる。そしてそれは今月だけ考えておけば
いいというものではない。