ポエカフェ永瀬清子篇

6時からやと思ってた私に3時過ぎ、ぴっぽ大先生から「3時からですよ」と衝撃的なメール。慌ててチャリにのって、走るぅ走る・・・なんとか4時に到着し、年譜に間に合いました(笑)
1906年岡山で生まれた永瀬清子。妹二人だそうな。
16歳まで父の転勤で金沢で暮らす。3歳の時、中原中也と同じ幼稚園にいたというから、すごい。でも覚えていたのかな。
名古屋に引っ越してから17歳(1923年)の時、妹が急性腸炎。看病して、親に好きなもんこうたるわと言われ、その返事がすごい。当時、高価な上田敏詩集をねだる恐るべき17歳。ここから詩の道へと進んでいく。1923年といえば関東大震災であり、プロレタリア詩人たちやら、アナキズムやら、ダダやらの勢いがすさまじかった時期である。
詩が初めて掲載されたのが、翌年の18歳の時で、「日本詩人」という雑誌である。この年、早くも清子はんは東京帝大法科卒の生真面目なエリートと結婚し、大阪に新居を構えるのだが、この嫁はん、すごい宣言を旦那はんにしはります。「詩を書くことが一番大事やから邪魔せんといて」と。今の時代ならともかく、戦前にこういうことを宣言する永瀬清子はただもんじゃありまへん。
1928年(22歳)で長女、美緒誕生。この頃は、春山行夫を中心に、「詩と詩論」の同人が詩壇を席巻していた。
1930年24歳、処女詩集「グレンデルの母親」刊行。
シュール・モダニズムの影響を受けていないことを批判されつつ、自分を貫く確かな世界観が他を圧倒し、支持を得る。
25歳ー「詩と詩論」を離脱した北川冬彦主宰の「時間」の同人になる。
1933年27歳、長男の春来(いい名前っすね)誕生。宮澤賢治の宣伝部長こと、草野心平から「春と修羅」を受け取り、覚醒。
翌年、宮澤賢治追悼会に出席した高村光太郎草野心平、新見南吉らと偶然、「雨ニモマケズ」が書かれた手帳を発見。
なんと、これ、詩として書かれたものではなかったらしく、ここでたまたま、発見されてなかったら、世には出てなかったのかも。
31歳で次女の奈緒、35歳で次男連平出生。
40歳の1946年、家督で譲りうけた水田にて初めて、農作業に取り組む。
43歳、第1回岡山県文化賞受賞。
45歳、この頃、ぴっぽさんのだーいすきな中江俊夫や飯島耕一らに会い、若い詩人に期待もつ。
1952年、「黄薔薇」をたちあげる。同人は女性6人。
49歳の時、アジア諸国民会議(インド開催)に出席。詩作だけでなく、社会活動もしていた永瀬は55歳の時、県庁内世界連邦事務局勤務を始める。
78歳、夫が逝去。
81歳「あけがたにくる人よ」で地球賞、ミセス現代詩女流賞を受賞。
95年、2月17日くしくも誕生日に89歳で亡くなる。
テキストをみると、長い詩、叙事詩なんてのもあり、どちらかといえば、長い詩が多い人なのだろうかと思った。
1948年の「美しい国」は戦争に対しての詩。
美しいものを美しいとほめてよいのですって。
この語尾がおしつけがましくなくていい。
この詩で一番印象的だったのがこれ

私をすなおにするために
あなたのやさしいほほえみが要り
あなたのためには私のが、

まずは自分から微笑むようにしたいと思う。

「焔について」に所収の「だましてください言葉やさしく」もいい。

だましてください言葉やさしく
よろこばせてくださいあたたかい声で。

夫婦の秘訣が書いてあるような気がしますな。

これは短編小説じゃないかという意見が出たのが「女の戦い」

世の奥様、これは必見でございますよ。

めちゃくちゃ長いので省きますが、永瀬清子と夫がどんな関係だったのか、これを読むとよくわかる。
よい事をよいというのは当然なのに、姑はあの子のいうことに逆らうなという
なんてストレートに書いてあり、面白い。

この人は詩壇の流れにも流されず、私生活でも芯の通った生活をし、
意志の強い人だなと感じた。