ポエカフェ吉井勇

ポエカフェ46回吉井勇。最年少の博識文学青年から、作家の宮内さん、Mr.一箱の南陀桜さんと参加者も多彩な顔ぶれ。
偶然にも北園ファンの隣に初参加できた方がこれまた北園ファンというすごい巡り合わせ。
1886年東京高輪生れ。近代詩人といえば、激貧か、ぼんぼん。今回は父が伯爵という良家の次男坊でございます。
15歳で作歌を開始。16歳で家が没落!家を売り、尾久へ転居。田舎だぁと馬鹿にし、反抗期へ突入。会場の不興を買う〔笑)
17歳、芝に引越し、俳句も作り始める。19歳 肋膜炎で鎌倉に転地療養。20歳 早稲田大学高等予科文科入学。『明星』にふれ、与謝野鉄幹に傾倒。新詩社へ入り、鉄幹の指導を得る。『明星』に短歌が10〜12月号で計110首も載るという恐るべし20歳の歌人は白秋と共に注目集める。
22歳早稲田の文学部に入学するものち退学とあるが、遊びすぎか?
この年、『五足の靴』で有名なあの九州旅行に行く。鴎外の観潮桜歌会に出席。
年末に新詩社、『明星』を脱退。24歳、時は1909年啄木、平野万里らと文芸誌スバル刊行。木下杢太觔主導の「パンの會」発足。酒好きの吉井にとって絶好の遊び場で、羽目外しまくりの青春の場であった。1910年25歳で第一歌集『酒ほがひ』刊行。賞賛の陰に多少の顰蹙もあれど、絶大な支持を得る。
父の家が転々としたことで放浪癖つのり、家に殆ど帰宅せず。
スバルが廃刊した1913年歌集『昨日まで』を刊行。30歳 ゴンドラの唄を作詞。
1916年赤木桁平『放蕩文学の撲滅』が読売新聞に発表され、槍玉の一人に。1919年里見らと雑誌『人間』創刊。36歳で14歳年下の柳原徳子(これまた伯爵家なんざます)と結婚。創刊したと思ったら『人間』はもう廃刊。翌年滋誕生。
38歳の時に関東大震災
このあたりから、落魄の道をたどっていく。46歳、悟りを開いたのか、伊野部恒吉のすすめで、土佐に隠棲しようと思うようになる。
高知酒造㈱六代目・九代目の社長(伊野部昌一)の父・伊野部恒吉を酒麻呂と呼び、親しくしていました。1933年11月13日不良華族事件。妻が加担していて、離婚へとなる。
50歳 何故か水虫で入院。どんだけひどい水虫だったのか。土佐で隠棲。伊野部恒吉から譲りうけ、渓鬼荘と名付ける。
吉井に転機が訪れる。52歳で国松孝子と結婚生活に入る。良き伴侶をへて、吉井は再び立ちあがる。
62歳ー天皇、谷崎・新村出らと大宮御所で会話。
この頃から京都の名士として、京都の商家に書を求められる。
最後の歌集を70歳で出し(『形影抄』)75歳で死去。
吉井の歌はてらいがなく、素直だ。酒や女のことをストレートに表現している。
気に入ったものをちょこっとご紹介。

夕空に入日はのこるはるばると思ふ君にも未練はのこる

夕空と入日の対比が素晴らしい。

悲しみて破らずといふ大いなる心を持たず悲しみて破る

覇気のない歌ともいえるけど、悲しみて破るという語を繰り返しつつ、さらっと上手いなあとひきつけられてしまう。こういう弱気な歌は酔って書いた
のだろうか。他にも
みずからの歌にも涙落つるほど心弱くもなりにけるかな

って歌い、ちょっと自分に酔っていると言えなくもない(笑)

寂しければで始まる歌を35首も書くとは・・・これ書いてる時ってめちゃ寂しかったやろと思う
と同時に一気に膿を出すという意味もあったのかも。
山田五十鈴や白秋、凡骨を歌に出したり、茶目っ気というか、素直なお人である。