第52回ポエカフェ 高橋元吉篇

場所はすっかりポエカフェの会場としてお馴染みになってきた神保町の「伯剌西爾」さん。
テキストをもらって数分、ぴっぽさんが叫ぶ。申し訳なさそうに「忘れたーー」
私もそうだけど毎回とても楽しみにしているあの年譜をどうやらお忘れになったとのこと・・・毎回、タワーのごとく関連図書を持参し、テキストも人数分用意してと、大荷物だもの。うぉぉ、これはいつもよりしっかりメモをとらねばと気合を入れなおす。
高橋元吉は1893年(明治26年)前橋の書店「煥乎堂」の次男坊。父常蔵・母志づ。元吉の上に4人。ふみ、清七、かつ、くに。清七と元吉だけ漢字なんすね。2歳の時、生まれた弟はその年に亡くなる。
3歳で母亡くす。4歳で親父はたつと再婚。お祖母ちゃんっ子だった元吉君は再婚のせいで大好きなお祖母ちゃんと離れることになり、悲しむ。
6歳の頃から詩や短歌を作り、この頃から才能の片鱗をみせる。
12歳ー前橋中学へ入学。当時、第4学年に萩原朔太郎在学。
16歳の時、元吉は卒業後、旧制第一高等学校に進学するつもりでいたが、頑固親父の一言で断念。
17歳で中学を卒業し、直ちに神保町の三省堂書店の機械標本部へ入社。
書店に機械標本部??この単語ぐぐってもわからへんぞー、誰か教えてくり。しかし、元吉、神保町に縁がありますな。開催場所も神保町。奉公先も神保町。ついでにこの後の忘年会も神保町(笑)
三省堂でこれまたここに勤めていた尾崎喜八を知り、雑誌「白樺」への関心を強める。
19歳ー隣の楽器屋へ勤務。これも親父の差し金ですわ。その後、煥乎堂の店員となる。メーテルリンク(ベルギーの作家、青い鳥が代表作)の英訳に没頭。
20歳ー姉ふみ死去。内省録(内村鑑三、聖書、マホメットの感想など)を書く。しかし、読んでるものがまぁ、すごいな。詩人であり、思索家でもあった元吉。身内の不幸が幼少の頃からあっただけに、小さい頃から死というものについて考えざるをえなかったのかもしれない。
21歳ーとかく近代詩人というと超貧乏なやつばかりなんだが、こいつは違うんだよな。そいつの名前は朔太郎。朔太郎の新築された書斎を友人の倉田健次らと訪ね、交流深まり、趣味・読書の幅が大きく広がる。元吉レベルだともはや趣味というより、教養である。
元吉は最晩年の1年4ヶ月を鵠沼の倉田の家で過ごす。
この倉田君というのは元吉にとって友人であり、彼の妹の菊枝と結婚して、義兄ともなる。
時代はとっくに大正の5年目、元吉23歳ー歩いていけるくらいご近所の朔太郎と往復書簡を始める。互いにポストへ入れて「いついつまでに返事をよこせ」と書いておったらしい。ちなみに元吉のほうが、朔太郎より7歳下なんだが、朔太郎は尊敬していて、元吉を兄貴と呼ぶ。それくらい信頼していたので、朔太郎が自分の内面をあんなにも手紙に書いたのは元吉一人である。この二人の絆ってすごいなあ。1919年11月までの3年半も続くなんて素敵な関係だなあ。
メールより味わいがあっていいですな。実物がみてみたいなあ。
しかし、朔太郎と元吉がこんなご近所なんて近代詩的にとっても豪華なエリアではないか。
1942年、父が死去し、兄の清七が家督を継ぐ。
25歳ー長女篤子誕生。室生犀星が「愛の詩集」を贈る。本を人に贈るなんてとても難しい一面もあるのだけど、なんて素敵なんでしょうと感動せずにいられませんな。
29歳ー妻菊枝死去。まだ26歳という若さで。元吉の周りで若くして亡くなる人が多すぎると思うのは気のせいだろうか。
第二詩集『耽視』は妻を亡くした悲しみを綴った詩を書き連ねている。
31歳の時、知り合った高田博厚という人物も生涯を通しての友人となっていく。元吉と朔太郎のような議論を交わせる友人が自分にはいるだろうか。何事も頼ってばかりの自分にそういう友人はいるだろうかと翻って考えてみると、彼等たちが羨ましいと思う。
高田、尾崎喜八らと「大街道」を発行。何の関係もないけれど愛媛には大街道商店街というのがある。
この年の12月、高田を紹介してくれた女学校の教諭、五十嵐愛子と結婚。
1926年(33歳)愛子との間に耶律が生まれる。なんともすごい名前だなあ。歌人、吉野秀雄との交流始まる。元吉の周りにどんどん凄い人が集まってくるのはひとえに元吉の人徳に他ならないだろうなあ。なお、この年に倉田百三編集の「生活者」が発行され、元吉は、詩・評論・エッセイを度々、ここに発表する。元吉はどんだけ幸薄い人なんだろうと、年譜で子供が死去とか兄弟が死去という文を見るたびに思ってしまう。
親より先に子供は死ぬなというけれど、37歳の時にまだ4歳で耶律が死去。38歳ー詩集「耶律」刊行。この本の出版記念会をなんと、新宿の中村屋でやったんだそうな。あのカレーの中村屋で!39歳ーまたしても愛児の不幸が襲う。三男良蔵が2歳で死去。元吉はいっとき、姓名判断してもらってペンネーム「成直」を使うくらい、相次ぐ愛児の不幸に傷ついていた。それでも人生を途中で投げ出したりしなかった元吉は偉い。
41歳ー同じ前橋出身のアナキスト萩原恭次郎が、危険思想家扱いされ、無職で困っていて、元吉の世話で煥乎堂へ入社。元吉君のお陰で彼は県外追放を免れる。この萩原恭次郎は後にアナキストをやめて農業詩人となる。
42歳、次女の佐知誕生。1943年49歳の時、兄の清七が死去し煥乎堂3代目当主に。この年、朔太郎も死去。
1944年、50歳ー太平洋戦争が進むにつれ、教科書の配給が困難に。県の教科書特約配給所の代表として、元吉は社の採算を度外視して教科書の必要量の確保に努める。ポエカフェで面白いのはこういう面も学べるとこにある。詩人の詩を読むというだけでなく、その人となり、その生涯にまで光をあてて、学習できるのがいい。1945年8月5日の空襲で煥乎堂店舗は全焼。倉庫で業務を再開。
54歳ー萩原朔太郎詩碑建設委員が発足され、委員長に。彼がいかに責任感の強い人間だったかということが『高橋元吉の人間』という本の中にも出てくる。
1949年56歳ー群馬詩人協会結成され、会長に。上毛新聞の上毛詩壇の選者となり、若手育成にあたる。58歳ー群馬県より委嘱され「群馬県の歌」作詞。
カヒロさんにポエカフェ忘年会用の歌をつくってもらおう、うん、それがいい。59歳ー煥乎堂の復興に力をいれ、社訓・内規などを自ら作るってことは今までなかったのか。還暦の時には、県立前橋女子高等学校の校歌を作詞。こういうのを依頼されるってことは人物に問題があったら、まず無理だから、人徳あったんだろうな。
62歳ー萩原朔太郎詩碑除幕式にて、三好達治と初のご対面。1957年(64歳)群馬詩人クラブ発足し、顧問に。こういう会ができる度に元吉はトップというか重要なポストに就任してることからも彼は周囲に信頼されているんだなということが窺える。社団法人群馬ペンクラブができ、会長に就任。この頃、軽い脳血栓にかかり、入院。65歳で退院し、鎌倉へ療養に。70歳の時、高村光太郎賞を受賞。これにはちょっとしたワケがあるとぴっぽさん。長いこと詩集を出していなかったので、賞をあげようにもあげられないということで、賞の選考に関わっていた高田博厚が「お前、詩集だせ」と元吉の尻を叩き、前年、第4詩集「高橋元吉詩集」が伊藤信吉の編集で河出書房から刊行されたというのが大人の事情でありましたとさ(笑)70歳で煥乎堂を退き、会長職に。藤沢市に転地療養。
1965年72歳で永眠。
年譜をすぐにPDFで送ってくださったぴっぽさんに感謝しつつ、テキストへ行きますよ
愛妻家だった元吉。書店業も詩作も全力投球だった元吉。何度となく愛する身内の不幸に遭いながらも決して生きることを諦めなかった元吉。
萩原朔太郎高田博厚などなど生涯を通して、いい友人に恵まれた元吉。
そんな元吉の詩はストレートで直球一本だ。

「桔梗の雌蘂」の冒頭がすごいぞ(笑)
菊枝!見た? 
思わずみてねぇよとヤンキー的突っ込みを入れたくなるような真っ直ぐな一行。突っ込みを入れたくなると同時にこの愚直さに魅かれる。
大正12年の詩集『耽視』において、第二章は「傷心」 と題し、妻を亡くした悲しみの咆哮のような 長編詩が収録。
この中からいくつか抜粋する

ただ、誰よりも先づおれを愛してくれる人がもうゐないのだ!

お前はほんたうにどこへもゐないのか!
菊枝!
菊枝!

もうどこにもいない最愛の人へのラブレターをそのまま読んでいるかのような悲痛な叫びである。
元吉は最愛の妻だけでなく、愛児も何度失ったことであろう。神は乗り越えられる試練しか与えないというけど、元吉に降りかかる身内の不幸は多すぎてもう
勘弁してあげてくださいとお願いしたくなるほどである。
愛児、耶律を失ったときは「耶律」と題して
そこらじゆう耶律だらけだ
さうしてどこにも耶律はゐない!

この何のひねりもない詩には会場からいろんな意見が飛び交う。
もうひとつ盛り上がったのが「おれは桜を見ない」という詩。
年度末感が非常によく出ているという感想もあり。
教科書販売をしてる書店にとって、3月から4月なんて年度末から新学期へと向かう一番忙しい時期で、それで元吉はこの詩で
おれは桜を見ない
見なくともよい
と締めくくっているが見てる暇なんてないわ!というのが本音だろう。
朗読はされなかったが「読書」という詩もいい。これが一番気に入ったので、全文いっちゃえ!
本を読んでゐると
何か射透かすやうなものが
頭の中を貫いて
双眼から迸るよやうな気がする
こんな時
ああ 思ふ存分
読んで読んで読み抜けられたら!

「謙遜」という詩を読んでどきっとしてしまう
神の前に謙遜なのはいい
しかし自分の為めに謙遜なのはいけない
それは謙遜ではない卑下だ
以下略

ううむ、卑下なのか。考えさせられる詩だ。
これも朗読してないけど胸に突き刺さる。「自由になつたら」で元吉はもし自分が自由になったら、思うがままになるとしたらどうするかと
問いかける。そして最後に
この質問に 現在の自分を照明されて御覧なさい
と。
テキストには無題の詩もいくつか載っていて、その中から気に入ったものを一気にいきまっせ。
1964年晩年に書かれたもので
どこで切ってもいいし
どこで切ってもわるい

永遠に未完成の完結

一方があれば 必ず
他方がある

お次はコレ
世の中でいちばんうつくしいものは
すでに美しいとさへ
言へなくなったやうな
東洋の書なのではあるまいか

さて、来年2月は奈良へ出張ポエカフェするらしいぞ。伯剌西爾さんのポエトリーフードのかぼちゃのタルトがもうこれまた絶品でした。
甘さは上品で、しかも甘いだけじゃないんだよ、あの美味しさ。これは定番メニューにしてほしいぞ。