ポエカフェ106回目は尾崎放哉

本日は尾崎放哉。小豆島のレモンロールケーキがおいしい。ロールケーキでレモン味って初めて味わった。いいねぇ、レモン味。

1885年(明治18年鳥取県邑美郡吉方町にて誕生。父の信三は地方裁判所の書記。母、仲。5歳で死んだ兄、姉の三人兄妹の末っ子。本名は秀雄。秀雄といえば小熊秀雄。実質、一人息子同様で大変可愛がられる。
ちなみに種田山頭火明治15年、萩原井泉水が明治17年生まれ。俳句の巨頭たちが揃ってこのあたりに生まれているのもなにかの運命か。

立志尋常小学校(当時は寺子屋形式、4年)から鳥取高等小学校へ。作文が得意で成績優秀。祖母に連れられ、浄土宗のお寺によく説教を聴きに行った小学校時代。幼少期より老荘思想に傾倒。

1897年12歳、鳥取尋常中学校入学。14歳頃より、短歌や俳句を作り始める。
1900年15歳、鳥取県立第一中学4年。校友雑誌に随想、短歌を発表。
同郷の先輩、坂本四方太(学生時代は高浜虚子に師事、上京してからは正岡子規に師事)に師事し俳句を発表。
この頃、与謝野鉄幹が新詩社設立。「明星」創刊。
文学界は浪漫主義が全盛。
3月、「ホトトギス」の投句欄に一句、掲載さる。従姉、澤芳衛の一家が大津市より移住。この芳衛に恋してしまう放哉なのであった。
翌年春、「白薔薇」を友人と編集発行。
1902年17歳、第一中学卒業。「夜汽車」という短編小説書く。https://www.aozora.gr.jp/cards/000195/files/49787_51188.html これ、青空文庫で読めるんだね。
この年、正岡子規逝去。9月、第一高等学校文科(英語科)入学。
放哉の同期がこれまたすごい。中勘助斎藤茂吉、一年上に萩原井泉水。
1903年18歳、ボート部で活躍。毎日隅田川へ徒歩で通う。井泉水らが興した「一高俳句会」に参加。思索癖が色濃くなり、、西洋哲学を残らず読み、「浅薄、論ずるにたらず」とし、東洋哲学に研究、耽溺。俳句の人というより、哲学者のイメージがこの頃の放哉にはある。
1904年19歳、日露戦争。一高教授の夏目漱石に英語を習う。
1905年20歳、「一高校友会雑誌」に二句掲載。漱石吾輩は猫である」発表。芳衛に結婚を申し込むも彼女の兄の静夫の反対にあい、一旦、断念。
この年、東京帝国大学法学部入学。難波誠四郎らと千駄木に家を借り「鉄耕塾」と名づけ、自炊。この頃、「芳哉」の雅号用いる。ちぃとも結婚諦めてないな・・・
1906年21歳、「ホトトギス」に二句入選。芳衛との結婚を兄の静夫に再三、頼むも、聞き入れてもらえず、諦める。法律よりもともと関心の高かった哲学、宗教にのめり込む。この頃から大酒に溺れる。こんなに勉強のできる放哉でも失恋がもとで酒に溺れる。
1907年22歳、「国民俳壇」に二句入選。雅号を「芳哉」としたり「放哉」としたり・・・放哉の傷の深さがうかがえる。
1909年24歳、追試で東京帝大を卒業。日本通信社に入社するも1か月ほどで退社。
1910年25歳、東洋生命保険株式会社(今の朝日生命)に就職、契約課に所属。
1911年26歳、鳥取の坂根馨と結婚するも妻が子宮筋腫となり、子宝には恵まれず。
萩原井泉水、旧来の定型句という呪縛からの脱却の意を示し、自由律俳句樹立の意思を宣言。河東碧梧桐の協力を得て「層雲」創刊。
1916年より、1919年まで自由律俳句の創作に打ち込む。
1921年36歳、大雑把な仕事ぶりや酒癖の悪さなどもあり、策略をはかられ、東洋生命、辞任。飲み屋のつけは莫大で借金の連帯保証人の難波は大変苦労するって、啄木&金田一みたいやなあ。
1922年37歳、禁酒を誓えばと難波との約束で朝鮮火災保険会社の支配人という肩書で渡朝。が新会社準備期間中にその誓いを破る。友人の折角の親切も無駄にしてしまった放哉。
1923年38歳、保険会社にクビを言い渡され、唯一の親友の難波氏との交情も途絶える。満州に渡る。
肋膜炎発症し、満州にて入院。自分の愚かさに強い自殺願望を抱く。妻に心中をもちかけるも馨は激しく拒否。馨と帰国し、長崎の知人宅に身を寄せる。
11月、京都の一燈園へ飛び込む。かたや馨は大阪へ一人で行き、自立して生きる。この精神力の違い・・・
1924年39歳、寺勤めをまじめにやるも病弱な体が耐えられなかったのと、集団生活になじめず、知恩院常称院の寺男となる。
井泉水が訪問、これが感激なのはわかるけどね、そこでまた酒で大失態とは・・・寺を放免される。
須磨寺大師堂の堂守となる。
1925年40歳、約9か月で須磨寺内紛の為、寺を出る。一燈園に戻る。福井、京都をへて世界で唯一(!)頼れる人間、井泉水の仮寓に転がり込む。井泉水や井上一二の尽力で香川県小豆島の南郷庵へ行くことに。窮乏きわまる食生活で病状悪化。
1926年41歳、合併症で気管支カルタと診断され、病状悪化し、4月7日没。晩年の寺住まい時期の3年間で放哉の代表作の多くを輩出。
生前の句集は1冊もなかった。

 水打つて静かな家や夏やなぎ

陽ざしが照りつける地面にさぁっと打ち水。一瞬の静けさ。目に浮かぶような一句。

 紫陽花の花青がちや百日紅

なんとも色鮮やかというか、え、季語が複数でてくる?と戸惑わせてくれる。

澤芳衛あて書簡中の句にこんなのがある
 狂気の、老女寝て居る座敷牢

座敷牢高橋新吉を思い浮かべてしまったではないか!これ、好きな人にこんなん送ってどうすんねん・・・

面白さではこれが一番でしょうか
 芋掘るは愚也金掘るは尚愚也

芋ほり大好きなんですけど・・・わたし。ちなみにどこでお金掘るねん・・・どこにお金が埋まってるねん。

本好きには見逃せない句がこちらの二句。
 本がすきな児に灯があかるし
 新しい本屋が出来た町の灯

ちょっといいなと思ったのがこれ
 心をまとめる鉛筆とがらす

もうここにすべてが凝縮されているというか、過不足なく表現できているような感じをうける。

自分もこうありたい
 人をそしる心をすて豆の皮むく

この句をどんな思いで詠んだのだろうか
 うそをついたやうな昼の月がある

トイレの落書もこの句でちょっと許そうかという気分になるのがこれ
 便所の落書が秋となり居る

自由律の真髄といおうか、え、こんなんでええのともう一度、まじまじと眺めてしまいそうなのが
 足のうら洗へば白くなる
 爪切つたゆびが十本ある
 よい処へ乞食が来た

こういう感じのストレートな俳句。朗読するとだからどうした?と言いたくなるくらいど直球で、放哉先生、こんなんでもええんですかとお伺いしたくなる。
ここまで素直にうたわれると、あ、こんなんでええんやと。したらええんやと。ひねりもなんもなくて、かえって何がひそんで
いるんやろと無駄に深読みしてしまいかねない。だけど、そんなことせずに読むほうも素直に読めばええんかな。

せきをしてもひとり

これは放哉の句でも一番知名度が高いかもしれない。ちょっと深読みしたくなるような隙がある句。