ポエカフェ 伊藤整篇

今年最後のポエカフェは伊藤整。この人、北原白秋以上に名前をきかないし、名前しかしらない。予習をしようと思って「イカロス失墜」新潮文庫を手にしたはいいが、ぐいぐい、進まない。まだてめぇには早いよという天のお告げであろう。潔く諦め、「ガラスの仮面」へと現実逃避・・・。そして、今度は忘れるもんかと筆記用具を確認って、小学生かっ!
その代わりといっては何だが、ポエカフェの翌日にたまたま入手した伊藤整の本で「鳴海仙吉」を読み出したが、これは面白そうなのだ。そう、読書は諦めも肝心だが、一方で他のだったらいけるんじゃないか、はたまた、今度、違う状況だったら、読めるんじゃないかというしぶとさも大事。気分によって、同じ本でも感じ方が違ったりするから、読書って奥が深いというか、難しい故の面白さがある。
今回も20冊以上の資料をみっちり読み込んでセレクトしたぴっぽさんの年譜資料&詩のコピーが配布される。毎回、ぴっぽさんが何枚、付箋を使うか、賭けるのも面白いかも。ズバリ当てた人は、賞品があるとか(おいおい)予習は挫折するは、賭けの提案はするは、誠に不謹慎な生徒である。
勿論、資料の伊藤整の顔に落書きしたりはしませんよ。退屈な学校の授業なら、いざしらず、ポエカフェが始まると、楽しくてそんな暇はない。
1905年、北海道は松前郡生まれ。次の数に久々驚く。12人兄弟!キタァー!ベビーブーム。今の少子化の日本ならさぞかし喜ばれたのか・・・それはいいとして、長男なのね。本名はひとしらしい。整(せい)はペンネームかな。
中学4年から詩を作り出す。我らの時代は中学は3年ですが、昔はこのへんが違うんでちょっとややこしい。
18歳の時、小樽高等商業学校に入学し、運命的な出会いをする。一級上に小林多喜二、同級に川崎昇。この川崎とは親友関係を築き、同人誌も一緒に作っていくのだが、費用を捻出の為、露天で石鹸やバラを売る。ますく堂もそうしようかな・・・とふと雑念。
しかもこのおにいちゃん、「薔薇ならうちのを差上げますわ」と、女子高校生らにそそのかされて、その子らの家の薔薇まで売ったんだそうな。ま、それだけなら、古本屋でいう、引き取り処分で終わるんだが、その中の一人、根上シゲルと恋愛だとぉ。世の中、うまいことできてますな。
詩作の初期に島崎藤村の「若菜集」を友人にすすめられる。読ませてはいけない人に読ませましたね(笑)
伊藤は「え、こんなに正直に書いていいんだ」と衝撃を受ける。若菜集は明治時代では、珍しく、女性のことや、恋愛のことをストレートに書いていて、これに気を良くした伊藤の詩といったら・・・最初に何を読んだか、幼少の頃、何を読んできたかって重要だよね。
高卒の後、中学校教諭に。勿論、国語担当ですよね。昔は全部、教えたのかな。
1926年、時は大正15年、21歳で処女詩集「雪明りの路」(椎の木社)300部自費出版。これ、序文が彼の大好きなイェーツ。
ここで巨匠高村光太郎登場。彼にも配っておいて大正解。光太郎はまめで、面倒見がいいんだな。真っ先に返事を出し、評価する。
詩壇内外にも好評。しょっぱなからすごい人だ。
22歳、「おらさ、東京さいぐだ」なんて言わないだろうが、上京。東京商科大学つまりは今の一ツ橋に入学。光太郎だけでなく、この年、小野十三郎らにも激賞される。知らない作家や著名人もわんさか気軽に学べるのがポエカフェのいいところ。小野って人はアナーキズム系らしい。
ここで突然、実家が破産と資料にある。私が出席した詩人はいつも実家が破産したり、超貧乏ではないか。じゃ、なぜ貧乏だったのか。時代背景などもひっくるめて考えなきゃいけないんだよな。
23歳ー古本好きの一般常識テストで必ずでる(そんなものはない)、不忍のあの夕焼けだんだんの古本屋の名前と同じ名前の同人誌を創刊。いやあ、こんなとこで信天翁さんに出会えるとは、私ぁ、嬉しいよ。
ところで、このお兄さん、つけ麺ならぬイケメンだったそうな。そりゃ、もう大変なモテぶりで、「雪明りの路」の読者の小川貞子(あのサダ子じゃない)と文通。2年間頑張って文通し、ゴールイン。近代詩の詩人の中で誰が、一番かっこいいか投票するのも面白いな。
伊藤整のかっこいい頃の写真が載っている本もあるので、興味のある方は、頑張って探してみてください(笑)
実家が破産して、一時、小樽に戻っていたが、その年、上京し、下宿先にいたレモンの人、梶井基次郎や三次達治らと交流。詩壇のトキワ荘
みたいなものか(笑)
23歳って彼の人生では波乱万丈の年だったようで、危篤の父を見舞うために一時帰郷したり、「新心理主義」の主張と実践を開始するという重要な年となる。文壇的にも1928年はモダニズム(最近、よくきくてふてふの人もだぞ)・アナキズム・プロレタリア派がどーんと出てくる絢爛期。ただ、伊藤はこれらのどれにもはまろうとしなかった。詩作から始め、何故、詩をやめたのかとD氏が鋭い質問をしていた。伊藤は無理にモダニズムの詩を書けなかった。一番大事な詩だからこそ、自分の一番大事な部分が詩であるが故にやめたという。
中野重治を思い出してしまうなあ。
この新心理主義ってのが、20世紀、精神分析学をもとに、「意識の流れ」や「内的独白」の手法によって人間の深層心理をとらえて描こうとした文芸思潮。ジョイスプルーストらがその代表で先駆者はウィリアム・ジェイムズ。日本では昭和初期、伊藤整堀辰雄らが取り入れ、伊藤は短編小説「感情細胞の断面」『皮膚の勝利」を発表する。しっかし、題名がすごいなぁ。感情細胞に皮膚の勝利だよ。椎名林檎の曲のタイトルにでもなりそうだ。
伊藤整ジョイスのファンだからね。伊藤整を学ぶだけで、露天の商売のコツがわかり(おい)、心理学まででてくるというなんと幅広いことよ。こういう勉強だと楽しい。
25歳、伊藤のマルチな才能はどんどん開花する。ジョイスの「ユリシーズ」の共訳。そして、小説、評論を次々と創作。
30歳で小説「馬喰いの果」を発表し、新心理主義から再び抒情性への回帰ってどんな心境の変化があったのだろう。
詩人の伊藤整がテーマだが、この人、2作しか出していない。最後の詩集の第二詩集が「冬夜」で32歳の時上梓。
35歳ごろから言論統制が戦時下で厳しくなるが、おのれの客観的観察を含めた私小説「得能五郎の生活と意見」なんてものを発表。
さぁ、アンダーラインの時間です(笑)1950年、45歳でロレンス「チャタレイ夫人の恋人」(上下)翻訳し、刊行したから、大変だ!
発表と同時にベストセラーで15万部。この時代、日本人は何人いたんでしょうね。そのうちの15万部っすよ。
戦時下ではないが、こんな猥褻なもん、認められるかぁーと起訴される。これ、読んではないが、小説がだめやったら、今のアダルトなんかどうなんねんと突っ込みたくなる。
勿論、伊藤整は黙ってはいない。日本文芸家協会日本ペンクラブ合同で激しく抗議したってことは、文壇ではOKなんじゃん。しかも15万部も売れたってことは世間もOKなんだよ。読むなといわれると読みたくなるんだなぁ。
だが、お上はそんなに甘くはなく、伊藤も出版者の小山久二郎も有罪判決。
ただでは転ばない伊藤整。この有罪は彼に対して、さしたるマイナスとならず、むしろ、彼にとっては名を広める事件となる。
ベストセラー作家となり、小説やエッセイの映画化も相次ぐ。となるとレンタルショップに走らねば。
伊藤整の三部作といえば「氾濫」「発掘」「変容」らしい。テストにでますよ(笑)伊藤 は若い頃から才能あったが、晩年も大活躍。
日本文壇史」で菊池寛賞受賞。
同世代の作家、高見順が1963年亡くなり,遺志をついで日本近代文学館の理事長に就任するも翌年胃がんで死亡。
ふぅ、やっと詩にはいります(笑)
伊藤整が影響をうけてきたのは島崎藤村、あとは北欧のイェーツ。この二人はきっちり抑えときましょう。あと、朔ちゃんこと萩原朔太郎も好きだった。
私がまず、びびっときたのが「言葉」田舎育ちでなまりをからかわれた伊藤。でも自意識が非常に強いのだ。

友よ 何も話し合わないことだ。
もうなにもね

なんとも強烈な一行から始まるのだ。衝突することを恐れがちな私からすれば、思いっきり、のっけから拒絶された気分にもなる。
だが、最後の一行もまた、必要なのだと思う、下記に記そう

みんな自分自身の沈黙と孤独に帰ることだ

『世間の顔』では面白い言葉がある。;ゆだや人のような銅貨の勘定;と。これはどういう意味なんだろう。

今回『池のほとり』をおみくじで朗読したのだが、最後の文がまたいいのだ

何よりも光に満ちていたのは
愛して
愛でいっぱいになっている私自身であった。

恋愛の詩でこうも自画自賛されるとすがすがしい(笑)

一番、お、やるなと思った表現はこれ

ざあつとやって来いよ 夏の雨。
地上のすべてのものは用意している。

『雨の来る前』という詩の始まりの二行で、いきなり、宣戦布告なのだ。

12人も兄弟がいるとこの兄弟たちのことも知りたくなるが、伊藤整だけで、こんな膨大なのだ。ぴっぽさんがはしょるのも当然だ(笑)
名前がどんなのだろう、とかいろいろ突っ込みたいことはあるが、その前に伊藤整の作品を読みたいからね。