ポエカフェ 西條八十篇

第4期のラストはあの西條八十。場所は神保町「伯剌西爾
自己紹介は「私と童謡で」と言われる。
明治25年(1892)年、東京市牛込区(今の新宿区)にて大地主の家に生れる。質屋から石鹸製造業を営み、6人兄弟の4番目だった。
八十は本名。間の九がないということで苦しみがない人生をという両親の素晴らしき願いがこめられていた。
12歳、早稲田中学入学。英語教師、吉江喬松との出逢いは強烈だった。以後、終生、師弟関係を築いていくのだ。
徳富蘆花泉鏡花に惹かれていく。
17歳、早稲田大学予科へ入学するも2ヶ月で退学。
彼が17歳の頃に大好きだった姉が結婚し奈良へ嫁ぐ。このお姉ちゃんが大好きだった八十君は号泣して行くなと叫んだとか(笑)しかも八十君、再度の受験準備でお姉ちゃんの家に押しかけて居候・・・
この年(1909)北原白秋の「邪宗門」が刊行。
19歳、早稲田英文科へ再入学。同時に東大国文科選科生となる。早稲田に行きながら東大でも好きな科目を履修してたんやね・・・勉強熱心やわ。「早稲田文学」「抒情詩」にも参加。同人誌などにも作品を発表。
1914(大正3年)吉江先生から指令が下る。ポー、ヴェルレーヌボードレールなどの詩を訳せと。訳し終えてもまだ不安になり、丸山順太郎に聞きに行って、雨宿りで新橋駅前の小料理屋へ。そこでドンパチならぬ、恋が西條君を待っていたんだとさ。親切に番傘を貸してくれた帳場の小川晴子に一目惚れ、はいいねんけどさ、翌日傘を返すついでに(いや、傘がついでやな)プロポーズって!
しかしいいことばかりでもなかった。実家の莫大な資産は兄が使い果たし、家督継ぐ資格なしとばかりに籍を抜かれる。でもって、こんな金のない状況でしかも学生やのに西條君が跡を継ぐ。兜町の株式取引所に勤めたりと八十君、大忙し。
23歳(1915年)早稲田大学卒業。卒論はアイルランドの文学者シングについて。この人が日本でとてもマイナで資料が殆どなく、挫けそうになるも徹夜で優れた論文を仕上げる八十君はすごい。
24歳、晴れて小川さんと結婚。この夫婦はかかあ天下なんだろうか。収入の乏しい生活で奥さんにすすめられて、新橋駅前で「天三」という天ぷら屋をやるってどうなん?
牛込から神保町へ転居し、天ぷら屋は人に譲渡。この頃、「英語の日本」をほぼ一人で執筆・編集。
1918年、26歳。「赤い鳥」創刊。主宰の鈴木三重吉が自宅に突撃。「新しい童謡をかいてもらえませんか」とオファーがくる。漱石門下の小説家として既に大家であった三重吉。まだ無名で訳詩をしても稿料さえもらえない状況で、はて、俺ってそんなに有名だったっけと八十、一瞬、疑問に思ったであろう。三重吉は知り合いから八十の詩などを見せられて、こいつだ!とびびっときたのだ。どこで誰がみてくれているかわからない。こつこつと真面目に一生懸命やってきた八十に大きな好機到来である。
そしてその期待に応えた八十。「薔薇」「たそがれ」「かなりや」などを書き下ろし、それらが翌年、曲がついて全国で大きな反響と支持を得るのだ。西條八十、ここにありと詩壇だけでなく、世間にまでその名は轟く。
さぁ、一人だけ面白くない奴がいた。その名は、八十より6歳年上で既にビッグネームの北原白秋
それもそのはず。彼は三重吉に子供向けの童謡を書いてくれと頼まれていた。で、八十君は大人向けの新しい童謡をと言われていたのだから、白秋の嫉妬の炎は一気に燃え上がった。29歳の時に八十は「赤い鳥」を離れる。この実力伯仲のライバルたちはお互いのことをよく分かっていた。白秋は、八十と同じ土俵だとまずいと知っていた。そして八十もしかり。
27歳の時に長女、嫩子(ふたば子)誕生。これ、絶対よめへんで。
この年に自費出版した第1詩集「砂金」がなんと18版!18ってコミックでもなかなかないで。
1920年、28歳で訳詩集「白孔雀」刊行。上田敏の「海潮音堀口大學「月下の一群」と同じくらいに評価されてもいいのにとぴっぽさん。大衆受けした詩人、八十しかり、夢二しかり。これらの詩人はどうも詩壇からはじかれているとのことだ。
この年、株価が上がり、手元の資金は30万円(当時だよ、すごすぎる)にもなったのに、あぁ、無念の株価大暴落でほぼ全財産失うも残った30円でフランス語辞典を買ったってんだから、もう泣けてくるよ。
1921年、なんとこのお方、池袋に転居とあるではないか。次女慧子誕生。しかし難しい名前ばっかり(笑)
そして早大の英文科講師(後に仏文科)になる。
1923年、日本史のテストでも必ず出るであろう、関東大震災。この震災時、上野で避難民を慰める少年のハーモニカの音色に感動。ここから大衆の為の音楽・歌謡曲に向かわせる動機となる。11月に次女が死亡。
32歳ー早大の留学生として渡仏。奥さんが日本にいるのに恋に落ちる八十。片思いだけならまだしもその画家の山岸元子と暮らしていたとか。いけませんねぇ、西條さん。ポエカフェ後の飲み会でこの話になり、けちょんけちょんにされたことはいうまでもないあるよ。「父・西條八十の横顔」(西條八束著・西條八峯編、風媒社)で、故西條八束氏が明かしているらしいので、この本をみつけて読まねば!それとぴっぽさんがお勧めしていた筒井清忠西條八十」も最優先で探さねば。
ちなみに長男の八束氏が誕生したのが八十が33歳の時です。
35歳の時、作詞した「東京行進曲」がなんと25万枚のヒット。当時、蓄音機が20万台しかなかったというのに、25万枚ですよ。蓄音機を上回っているということは、きっと友達の家で聴いてるんですよ(笑)
こんな忙しい八十君に師匠の吉江先生は早大の仏文科教授になりなさいと言うんです。八十君、仏文科出てないんですよ、先生、無茶です!八十君よりフランス語が出来る学生があれやこれや突っ込みます。八十君、一度はへこみますが、逆境をはねのけるのがこの人の凄い点です。作詞家活動だけでも多忙やのに、西條君、負けてなるものかとフランス語の勉強もします。逃げないんですよね、素晴らしい。地道にこつこつ、勉強するんです。
西條君、まだまだすごいとこがあります。作詞家の待遇が作曲家より格段に低いことを問題提起。作詞家の立場を引き上げるだけでなく、著作権を確立させました。芸術家というだけでない西條八十
まだまだ面白いエピソードあるんよとぴっぽさんは沢山、隠し持ってるようなので、リターンズを気長にゆっくりと待ちたいと思います。
そういえば、会場で一番人気だったのが「蘇州夜曲」

私が八十さんの詩で唯一知っていたのはあれです、そうです。1922年「ぼくの帽子」
これは2004年の竹野内豊主演のドラマ「人間の証明」を見ていて、初めてこの詩に出会ったのです。
この詩を伏線として上手に使っていたこともあったけど、強烈に印象に残ったのを覚えています。
本好きとしてはタイトルを見ただけでぐいっと気合が入った詩が「書物」
月の夜は
大きな書物、
ひらきゆく
ましろき頁

この最初の一連だけでも素敵ですが、最後の連も

月の夜は
やさしき詩集、
夢のみをかたれる詩集。
こういう詩は電子書籍では味わいたくない。書物だからこそ紙の本でしみじみと味わいたい。
ぴっぽさんが一番好きなんだけどという「蝶」の一連目が議論を呼ぶ。

やがて地獄へ下るとき
そこに待つ父母や
友人に私は何を持つて行かう

何故、一行目、地獄なのだと喧々諤々。喫茶「伯剌西爾」に議論の桜吹雪舞う。

個人的にいいなと思ったのが他にもあってそれが「夜の詩」のこの一行。
また悩みの糸を紡ぎはじめる。

ううむ、上手い。しかも洗練されていて、きれいなんです。
と感心していたら、ぴっぽさんがこれは都市伝説ですなんて驚かせる詩がでてくる。
トミノの地獄」という詩でこれを全部音読すると災いが降りかかるという・・・
寺山修司が「田園に死す」という映画でこれを歌にしているらしい。
八十の詩では地獄という単語が意外と出てくるような気がする。
アイルランド文学に親しんでいた八十の詩は幻想的なものも多い。地獄という単語が出てくる詩もあるけど、
泥沼にはまったなあというようなきつさはなくて、洗練されていて、難解なものを書いて煙に巻くというような
ものもない。すごくバランスがいいなという印象である。

さて、本日の第57回までずっと皆勤賞でポエカフェの裏方として大活躍してきたカヒロさんが、
来月からは音楽活動に専念されるということで、ポエカフェは今回が最後となりました。
本当にお世話になりました。ありがとうございました!
画像のCDは全てカヒロさんが製作。これ、子供が聞いたら、すぐに覚えて歌っちゃうだろうなというような曲も多くて、保育園、幼稚園、小学校の関係者様、如何でしょう。振り付けとかつけて踊ったら楽しそうなんだよね。
詳細はhttp://kahirosuzuki.blog.fc2.com/に掲載されていますので
要チェック!













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